11 度会国御神社 外宮摂社 外宮神域

 伊勢神宮の外宮げくうは、豊受大神宮とようけだいじんぐうのこと。伊勢市駅から徒歩五分ほどの市街地にあります。
 宮中や内裏だいりといった「内」宮に対して「みや」といいます。
 外宮は、明治時代まで度会わたらい氏が、代々神主を務めてきました。
 伊勢市を中心とした地名も度会で、明治九年に三重県と合併するまでは度会県でした。『古事記』にも、「度会の外宮」と登場する古い地名です。
 百二十五社には、度会と名の付く神社が二つあります。
 外宮の北側の入り口、北御門口きたみかどぐち。そこから火除橋ひよけばしを渡り、神馬しんめのいる御厩みうまやの手前を右折すると、人の気配がない細道が続きます。毎月一の付く日は、朝、神馬が正宮しょうぐうにお参りするのですが、その際、この細道を作丁さくちょう (奉仕員)に連れられて白い神馬が進むのです。ある朝、神馬を待っていたら、緑の森からゆっくりと姿を現した白い馬は神々しく、日本画家・ 東山魁夷ひがしやまかいいの描く絵画を思わせました。
 この静かな細道沿いに、度会国御神社があります。
 ご祭神は、彦国見賀岐建与束命。ひこくにみがきたけよつかのみこと。長い名前です。度会神主の祖・天日別命あめのひわけのみこと御子みこ神といいます。外宮の神主、度会氏の祖先の神さま、氏神うじがみにあたります。内宮神主、荒木田あらきだ氏の氏神が内宮から離れた多気郡たきぐん玉城町たまきちょうにあるのも、もともとはそこが居住地だったからですが、度会氏は外宮周辺の山田原に暮らしていたのです。
 百二十五社の神社に参っていると、さまざまな神さまがいらっしゃることに改めて気づきます。ことに、この度会国御神社は、日本人が大切にしてきた、ご先祖さまへの敬い、祖霊それい 信仰を思い起こさせてくれます。私たちは神さま、仏さま、そしてご先祖さまにも手を合わせてきたのです。そうした神社も伊勢神宮の百二十五社には含まれているのです。
 外宮の度会氏が唱えた神道を伊勢神道、度会神道と呼びます。神道五部書ごぶしょを基本の教典として、鎌倉時代後期の度会行忠 わたらいゆきただ、南北朝時代の度会家行いえゆき、江戸時代前期の度会延佳のぶよし…と築き上げてきました。外宮の森の東に、白い土塀がぐるりと囲む一角があります。ここには江戸時代前期に度会氏らが私費を投じて建てた豊宮崎とよみやざき文庫がありました。外宮の神官と子弟の学校であり、図書館でした。残念ながら講堂は明治十一年に焼失し、現在は旧豊宮崎文庫として土塀と門が残るのみですが、所蔵した書籍は現在も神宮文庫に受け継がれています。瓦屋根の立派な門の前に立つと、度会氏に貫かれてきた気風のような、 溌剌はつらつとした空気を感じます。
 もう一つ、度会と付くのは、外宮の度会大国玉比売わたらいおおくにたまひめ神社です。旧豊宮崎文庫から外宮の森をぐるりと囲む道路を進むと、鳥居があり、そこから入ります。ここまで来る人はまず少ないのですが、度会氏にゆかりのある逸話を残す神社なのです。
 ご祭神は、大国玉命おおくにたまのみこと弥豆佐佐良比売命みずささらひめのみこと。おおくにたま、みずささらひめ。地主の神さまと水の神さまをまつるのは、この土地の開拓にちなむのでしょう。
 そして、この二柱の神さまが、神武天皇の代、近畿地方を平定した天皇の命により伊勢へ赴いた天日別命を迎えたと伝わります。その際、手に持っていた弓を橋にして出迎え、国土を差し上げました。土地の神さまが、武器である弓を、橋にして新たなリーダーを渡す、土地を譲る象徴的な話です。
 度会にかかる枕言葉に、「百船ももふね」があります。たくさんの船という意味の「百船」の度会。かつて、多くの船が寄港した宮川の河口だったことを語っています。天日別命もそうした船に乗って、この地にやってきたのでしょうか。
 度会大国玉比売神社の向かいには、 伊我理いがり神社が建ちます。
 伊我利比女命いがりひめのみことがご祭神です。「いがり」とは古くは神田の耕作始めに関する鍬山くわやま 神事のことを鍬山伊賀利神事と記しており、この神事にちなむと考えられます。昭和の戦前まではこのあたりに外宮の神田が広がっていました。また、神田の井泉の神さまも一緒にまつっていることから、ここには稲作に深い関わりのある神さまがいらっしゃるのです。
 内宮摂社せっしゃ大土御祖おおつちみおや神社にも、「おおくにたま」「みずささら」の神さまがまつられています。神宮の祭典に使う米を育てる神宮神田近く(伊勢市 楠部町くすべちょう)にあるのは、稲作をしていく上で、土地の神さまと水の神さまを大切にしていたことを伺わせます。
 「百船の度会」。しばし、神田が広がり、船が行き来する河口に思いを馳せました。