• 83年前に祖父が創業した児童書出版社を突然引き継ぐことになった『もしドラ』作家・岩崎夏海。
    何の興味もなかった社長業で、50余名のスタッフを率いながらドラッカーの教えはどう活きる!?


第九回  絵がうまい絵本を作りたい

 

 ぼくの祖父は、児童書の出版社を創業した。そして彼の妻である祖母は、美術が好きだったこともあり、そこで編集の仕事をしていた。
 そして、そこで知り合った女性と結婚した。相手の女性は、同じ学部のデザイン科の学生だった。だから、二人から生まれた子供は必然的に両親ともが東京芸大美術学部出身ということになった。そのため、やっぱり幼い頃から美術に親しむこととなったのだが、そのうちの一人がぼくだった。ぼくの両親は、ともに東京芸大の出身なのだ。
 おかげで、ぼくの家には美術に関する本や物がたくさんあった。ぼくは、物心つかないうちからそれらと身近に接し、自然と美術に強い関心を持つようになった。そうして最終的には、両親と同じ東京芸大美術学部に進学することとなるのである。

 

 そんなふうに、ぼくは美術一家で生まれ育った。そこで、いうなれば美術エリートのような教育を受けた。だから、将来は美術家、あるいは芸術家になろうと考えたことも一再ならずある。
   しかし結果的に、ぼくはその道に進まなかった。理由は、大きく三つある。
   まず、絵を描くことにそれほど情熱を持てなかったこと。
   ぼくは、絵を描くことははっきり言って好きではなかった。ただ「嫌い」というわけでもなくて、「好きでも嫌いでもない」というところだった。
   それでも、幼い頃から手先は器用であり、またセンスも良かったので、絵がうまく、よく周囲から褒められた。その頃の絵はあまりにもうまいということで、今でも母が実家の壁に額に入れて飾っているくらいだ。
   子供というものは、褒められればやっぱり嬉しいものだから、ますます描くこととなる。おかげで小学校に上がるくらいまでは、ずいぶん熱心に絵を描くことに打ち込んでいた。

 

 ところが、小学生に上がるとぼくにも自我のようなものが芽生えてきた。そうして、絵には感じなかった「好き」という感情を、他の何かに感じるようになるのだ。
 その好きになったものは大きく二つあって、一つは「野球」、もう一つは「本」だった。ぼくは、このどちらにも夢中になった。野球は本当に一生懸命プレーしたし、テレビの中継にもかじりついた。本も、絵本、小説、マンガを問わず、片っ端から手当たり次第に読むような感じだった。文字通り本の虫だった。
   おかげで、自然と絵を描くことからは離れていった。小学校3年生くらいになると、野球をすることと本を読むことで忙しく、絵は学校の授業くらいでしか描かなくなった。
 そんなふうに、ぼくは絵を描くことから早々に離れてしまったのだが、大学受験のときになって、特に行きたい大学もなかったことから、もう一度絵筆を取ることとなった。それは、絵を描くことは好きではなかったけれど、依然として得意ではあったので、その能力を活かした方が得策なのではないかと短絡的に考えたからだ。
 そうして、その考えは実を結ぶこととなり、ぼくは東京芸大美術学部建築科に現役で合格した。
 ただ、それでホッとしたのか、再び自我というものがむくむくと湧き上がってきた。自分の好きなことをまたしたくなった。この頃(そして今も)、ぼくはエンターテイメント・コンテンツを作りたいと考えていたので、大学卒業後はその道に進み、今に至るというわけである。

 

 そんな人生を送ってきたおかげで、ぼくは「絵」というものに複雑な感情を抱いている。それは、非常に親しみがある反面、好きではないため、どこか遠い感じもする。特に、描くことにはほとんど興味を持てなかったから、昔振ってしまった恋人のような、変な後ろめたさがあるのだ。
 それでも、鑑賞することは好きだった。それは本好きとも関係するのかもしれないが、ぼくは作ることよりも見ることの方が好きで、特に絵に関しては、描くのに飽きてしまった後でもずっと興味を持って続けてきた。
 とりわけ高校・大学時代には、勉強のために図書館にあった世界の名画全集を読破したり、さまざまな美術館を巡ったりした。日本各地の名建築を巡るということもした。
 そうした経験を通じ、ぼくは自分なりの美術観というか、ある種の鑑賞眼を醸成していった。もちろん、プロには到底及ばないものの、それでも一般よりはずっと詳しくなったのである。
 だから、ぼくは自分の「絵を見る能力」に関しては、それなりの自信を持つようになった。それは、値段や評価についてもある程度知っているということなのだが、それ以上に「うまい絵」という概念について、自分なりの価値基準を持つようになった。ぼくの中には、絵についての自分の評価軸――物差しというものができあがったのだ。

 

 後に岩崎書店に入って絵本の編集をすることになったとき、まず考えたのは、この美術の「物差し」についてだった。これまでの人生の中で、ぼくはこの物差しをほとんど活用してこなかったのだが、しかし絵本の編集をすることになって、それが初めて活かされるときがきたのではないかと直感した。
 というより、絵本の編集者ほど、それを必要とする職業は他にないのではないかとさえ思えた。なぜかというと、絵を描いていた経験から、作家は必ずしも審美眼は必要ないというのはわかっていた。それよりも、評論家や画商や編集者といった、画家の周りの人たちの方が必要だ。彼らは、その絵の価値を判断したり、評価したりするのが仕事だった。そこに、絵に対する物差しは欠かせなかった。
 だからぼくは、運命の不思議さを感じながら、自分のこの美術に対する審美眼を今こそ活かそうと考えた。それを活かすことで、編集者としての優位性を獲得しようと考えたのである。

 

 

 そうしていざ絵本の編集を始めたとき、まず打ち立てたコンセプトが「絵がうまい絵本を作る」ということだった。
 これには、理由がある。
 ぼくは、上記のような生い立ちをしてきた関係で、ごく幼い頃から絵のうまい下手には敏感だった。特に子供の頃は「うまい」と褒められることが目的で絵を描いていたから、「絵がうまいとは何か?」ということについては人並み以上に考えた経験を持っているのだ。
 そうした過程で、ぼくには一つ、子供時代に抱いた不満というものがあった。それは、世の中の絵本が必ずしも「うまい絵」ばかりではないということだ。絵本には、驚くべきことに下手な絵のものもたくさんあった。というより、むしろそちらの方が多かったくらいだ。
 ぼくの母親は、東京芸大のデザイン科出身だ。だから、当然のように絵が好きだったのだが、同時に絵本も好きだった。そのため、ぼくが生まれるより前から、子供のためというよりは自分のためにたくさんの絵本を買っていた。
 おかげで、ぼくが物心ついたときには家にすでにたくさんの絵本があった。それは、祖父が経営している岩崎書店から送られてきたものもあったが、ほとんどは母親が自分の趣味で集めた他社のものだった(特に岩波書店と福音館書店が多かった)。
 だから、ぼくは幼い頃にそれらを浴びるようにして育った。おかげで、絵本と親密な関係を築くようになり、自然に本好きになったのだ。
 そうして、少し大きくなると自然と図書館にも行くようになった。家にある本だけでは飽き足らず、もっとたくさんの絵本を読みたいと思うようになったからだ。
 ところが、そこで困った事態が出来する。それは、図書館の本がちっとも面白くなかったことだ。もっというと、その絵が面白くなかった。図書館にある絵本の絵は、家にあった絵本の絵に比べて明らかに下手だったのである。
 いや、中にはうまいものもなくはなかった。しかしそのSN比というか、全体におけるうまい絵の割合は極端に低かった。ぼくにとっての「当たり」が非常に少なかったのだ。

 

 ただ、今考えるとそれも道理だった。というのも、ぼくの母親はやっぱりうまい絵の絵本が好きだったので、そればかりを集めていた。だから、家にある絵本に当たりが多いのは当たり前の話だった。
 しかし図書館は、そうした絵本ばかりで構成されているわけではない。そのため、かえって絵の下手な絵本が目立つような格好となった。おかげで、ぼくの「本を読みたい」という欲求は、そこで満たされることはなく、むしろ不満が募るような格好となってしまった。
 そのことが、幼いぼくにはどうにも歯がゆかった。もちろん今では絵の下手な絵本も必要だとある程度は理解しているものの、当時のぼくにとって読みたい本が読めないのはある種の苦痛ですらあった。もっと上手な絵が見たいのに、それが見られないという欲求不満がそこに生じていたのである。

 

 その不満というものを、絵本の編集をすることになったこのとき、ぼくは40年ぶりに思い出した。40年ぶりに、絵が下手な絵本に対するある種の憤りのようなものが、ふつふつと湧き上がってきたのだ。
 そのため、これから編集するであろう絵本については、ぜひとも絵がうまいものにしたいということを強く望んだ。そのこともあって、ぼくが執筆を依頼する方はほとんどイラストレーターで、それも日本を代表するような絵のうまい方となってしまった。しかしそれは、ある種の必然でもあったのである。
 そして、その中でもぼくが最も好きだといえる、ある一人のイラストレーターの方がいた。その方は、ぼくがあまりにも好きなために、絵本の編集を始める以前に、ぼくが書いた小説の表紙の絵をお願いしたくらいだ。
 でも、ぼくは、その方の絵が好きすぎて、逆に絵本の依頼をするのを少し躊躇した。もし断られたらぼくの心が傷つくし、あるいは頼むことそのものがおこがましく、恐れ多いような気もしていたのだ。
 しかし、編集者としていい絵本を作らなければならない使命がある以上、そうした個人的な感傷にとらわれるべきではないとも考えた。そこでぼくは、絵本の編集を始めてから3ヶ月後の2015年11月に、意を決してその方に絵本の執筆依頼をしたのである。
 その方こそ、イラストレーターの影山徹さんであった。次回は、影山徹さんについてお伝えしたい。

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