第十話

 三昧堂の前に「西行桜」と呼ばれる小さな桜の木がある。西行法師が手ずから植えたと伝わるものである。たしかに西行といえば桜、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」という有名な歌をはじめ、『西行桜』という世阿弥の能もあるくらいだが、この桜の木を見るまで、彼が高野山に身を寄せていたことには思い至らなかった。出家後の西行法師には、種田山頭火のように諸国を放浪していたイメージが強いせいだろうか。

 俗名を佐藤義清(憲清・のりきよ)という。藤原鎌足を祖先とする裕福な武士の家系に生まれ、若くして「北面の武士」と呼ばれる武士団に選ばれる。これは院直属の精鋭部隊であり、同僚には平清盛がいたというからエリート中のエリートである。この前途有望な男が、突然のように官位と妻子を捨てて出家した。保延六年(一一四〇年)、二十三歳のときである。少壮の歌人として知られており、名門の武士で、鳥羽上皇の親衛として名のあった青年の出家は、当時もかなりの驚きをもって受け止められたらしい。
 西行出家の動機をめぐっては、古くより様々な説がある。それだけ謎が多い、というよりも人々の興味を喚起し、詮索を誘うものだったのだろう。

 私もまた勝手な想像をめぐらせてみる。気にかかるのは、やはり年齢である。二十三歳という年齢は、「世を儚んで」といった出家遁世のイメージからすると、いささか若過ぎはしないか。
中世の出家遁世の背後に、浄土系の世界観や死生観があったことは間違いない。そして西行が生きた平安末期から鎌倉初期にかけて、やがて法然や親鸞によって完成される浄土思想は、最先端の前衛思想であり、出家遁世は前衛思想の実践的な側面をもっていた。すると二十三歳という西行の出家年齢にも、ちょっと違った角度から光を当てられるような気がするのだが、どうだろう?

 高野山とのかかわりで少し年譜的なことにも触れておくと、西行が山に入ったのは久安五年(一一四九年)前後とされる。三十歳くらいになっているから、それまでは空海と同じように諸国を漂泊しながら、いろんな寺に転がり込んで修行していたのだろう。高野山に庵を結んだあとも出入りを繰り返し、約三十年を当地で過ごしている。入寂は建久元年(一一九〇年)で、河内国の弘川寺と記録にはある。享年七十三。
 西行が生きた時代、世俗で起こっていたことを簡単に見てみる。まず保元元年(一一五六年)、皇位継承をめぐる朝廷内の内紛から保元の乱が起こる。西行が三十九歳のときである。これをきっかけに平治の乱を経て、源平による戦乱の時代に入っていく。

戦火は全国を包み、壇ノ浦で最後の戦いが行われたのが元暦二年(一一八五年)、西行は六十八歳になっている。つまり彼が高野山にいた三十年間は、そっくり戦乱の時代であったと言ってもいい。仮に在俗していれば、一武将として戦いに参加することは必定だっただろう。西行の出家遁世は、戦いに巻き込まれることを避ける、ほとんど唯一の手段だった、というのは穿ち過ぎた見方だろうか。
 殺したくもないが、殺されたくもない。だが否応なしに、そうした場所に身を置かなければならない。いまでも世界の至るところに、そのような抜き差しならぬ場所があり、抜き差しならぬ境遇の者たちがいる。

 ほんの些細な理由から喧嘩や争論となり、そのたびに殺傷や抗争が繰り返される。親兄弟の恥を雪(そそ)ぐために命を賭する。「身内」の観念は遠い一族郎党にまで及び、下手をすると生涯が、討った討たれたの復讐劇に費やされることになる。
 利発で鋭敏だった幼い西行が、こうした世界を嫌ったと考えることは、あまり無理のない想像のように思える。この世のあらゆる刃傷沙汰から逃げたい、逃れたいと願いながら成長した一人の青年にとって、空海が開いた高野山は、心のよりどころであったのかもしれない。
>>第十一話に続く
<<第九話を見る