第十二話

 現在の高野山の宿坊は、ほとんど普通の旅館や民宿と変わりない。トイレは水洗で、各部屋に冷暖房の設備があり、宿坊によってはテレビまで置いてある。いろいろな面で、宿泊者にたいして敷居が低い。お酒は自由に注文できるし、朝の勤行も瞑想も、参加は自由である。宿坊によるのかもしれないけれど、私たちが泊まったところにかんして言えば、厳しい規則や強制は何もなかった。堅いことは言わず、まずは高野山を楽しんでもらいたいという雰囲気である。こうした無理のなさが高野山の特色であり、海外からの客を数多く呼び寄せることにもなっているのだろう。

 寺院と堂塔伽藍が主体の高野山ではあるが、民家も多く混在している。現在、二千数百と言われる人口のうち、僧侶の占める割合は四割ほどらしい。半数以上は在家の人々によって構成されているわけだ。山内には、小中高校から大学、専修学院などの教育機関をはじめとして、病院、警察署、消防署、銀行、郵便局と、日常生活に必要なものはほぼ揃っている。町制がしかれているから役場もある。もちろん中心街には寺院に交じって、飲食店や土産物屋をはじめとする商店が軒を連ねる。コンビニも幾つか見かけた。
 もともと高野山は聖俗を合わせ持つ場所だった。別の言い方をすれば、世俗を排除しない傾向が強かった。だから「俗化」という言い方が適切かどうか、微妙なところだ。

 おそらく空海がひらいた真言密教の教えともつながっているのだろう。たとえば主著の一つである『即身成仏義』は、つぎのような問いからはじまっている。

 諸(もろもろ)の経論の中に、皆三劫成仏(さんごうじょうぶつ)を説く。いま即身成仏の義を建立する、何の憑拠か有るや。

 「三劫成仏」とは、きわめて長い時間をかけて修行し、悟りに至ることで、大乗仏教における代表的な成仏論とされる。そのような「三劫成仏」にたいして、空海は「即身成仏」の義を立てる。この場合の「即身」には、「その身のままで」という意味と、「現世において」という意味があるだろう。さらに広く解釈すれば、在俗のままで、あるいは聖俗を超えて、ということになるだろうか。

 無限に長い修行など意味がない。また聖域という結界を張って世俗を排除する必要はない。閉鎖的空間に閉じ籠って修行することは、不必要であるという以上に危険である。それは独りよがりの肥大した観念のなかに、修行者を監禁してしまう。仏教のみならず、あらゆる宗教の目的が「衆生救済」にあるとすれば、普通の人たちが普通に暮らしている生活の現場で「成仏」しなければ意味がない。また自分だけの悟りには意味がない、ということでもあるだろう。
 さらに言えば、普通の人たちの願いや祈りのなかに尊さがある。仏像も伽藍も、それだけではただの彫像であり建造物だ。名もない無数の人たちが拝むことによって、仏像には心が入り、伽藍は尊く崇高なものになっていく。尊いのは人々の願いや祈りであり、崇高なのは人間の精神かもしれない。

 この世で通用する能力や才能など、たかが知れている。あれほど超人的な能力と才能に恵まれていた空海が、高野山の造営に苦労したこと、そして在世中には、私たちが今日目にしている堂塔伽藍の、おそらく何百分の一しか落成できなかったことは、理不尽さや無情さよりも、人間にとって大切なものは何かを教えているように思う。若いころの空海自身が、誰よりもそのことに自覚的だったのではないだろうか。だから高級官僚などつまらない、官僚養成所で学ぶ儒教など、たかだか世俗の作法に過ぎないと見切りをつけて、乞食(こつじき)僧に身を落とし山林を漂泊する道を選んだのだろう。
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