第十三話

 午前五時半に起きる。六時からはじまる朝の勤行と護摩修法に参加するためだ。昨夜は午後九時ごろに寝たので、早起きという感じはしない。住職をはじめとして、七、八人の僧侶たちが居並んでいる。参加者は十四、五人だろうか。そのうち三分の一くらいが外国人だ。そういえば宿坊の部屋には、祈祷用の護摩木が置いてあった。英語の説明が添えてあり、「グッド・ヘルス」や「サクセス・イン・ビジネス」などの願いを書いて申し込めとある。一本五百円。彼らの目に、この東の果ての国の「ファイアー・リチュアル・メディテーション」はどのようなものとして映っているのだろう。

 勤行の形式は寺院によって違い、一定したものではないらしい。本尊の真言や陀羅尼(だらに)を念誦し、『般若心経』や『観音経』を読誦する形が一般的とされる。真言も陀羅尼も密教の呪文で、比較的短いものを真言、長いものを陀羅尼という。真言はサンスクリットでいうところの「マントラ」、梵語(サンスクリット語)をそのまま音写したもので、たとえば不動明王の場合は、「のうまく さんまんだ ばざらだん せんだまかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」となる。私たちの耳にはまさに呪文、謎の言葉だ。堂内には徐々に怪し気な雰囲気が漂いはじめている。
 いよいよ護摩行がはじまった。護摩とは「焚く」「焼く」を意味するサンスクリット語の「ホーマ」を、やはり音訳して書き写した語である。

 もともとはバラモン教の儀式で、薪を燃やして供物を投げ入れ、煙を天に届けて恩寵に授かろうという、素朴な信仰から生まれた。日本各地に残る雨乞いの儀式みたいなものだろうか。それが仏教のなかに流れ込み、災難を逃れたいとか病気を治したいとかいう、現世利益のための儀礼として整えられていったらしい。一本五百円の護摩木祈祷も、こうした流れにあると言えるだろうか。
 炉のなかにくべられた護摩木が激しく燃えている。読経はつづいている。護摩を焚いている僧侶は、忙しげに杓を使い、真鍮製の器に入った様々な供物を火のなかに投じている。これらの供物は、五味、五薬、五宝、五香などと呼ばれる。そのたびに炎が上がり、ときに火の粉は天井まで達する。

 願い事が書かれた護摩木が、一本ずつ丁寧にくべられていく。炉のまわりには三鈷鈴、錫杖、柄香炉……他にも名前のわからないたくさんの道具が並ぶ。目にするもの、耳にするもの、すべてが珍しい。日本とインドと中国がブレンドされたような、懐かしいけれど新鮮な独特の異国感が漂う。さもしい人間が政治と経済を動かし、私たちの愚かさと浅はかさが国土を放射能まみれにしてしまった国。そんな国の奥深くで、こうした儀式が千年以上ものあいだ途絶えることなく行われていることに、不思議な心の安らぎをおぼえる。
 火のなかを清浄の場として仏を観想するなど、いろいろと心得はあるのだろうが、まずはこの独特な雰囲気に浸りたい。日本人も外国人も関係ない。ここではみんな外国人なのだ。

 考えてみれば、密教自体がインドで生まれ、中国を経て日本へもたらされたものだ。多くはサンスクリット語の経典が漢語に翻訳されたもので、訳されたもの自体が、私たちにとっては外国語だ。また空海の著作も唐代の漢語で書かれている。空海は日本人だが、彼の著作は外国語でなされたものなのだ。さらに空海自身が国家や民族を突き抜け、人間的な普遍の場所で生きようとした人だった。そのような人物によって打ち立てられた真言密教の世界が、もともと無国籍であり、彼によってひらかれた高野山は、国家も民族も超越した、ただ一人の人間、一個の生命であれば事足りるという場所なのかもしれない。
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