第十四話

 朝の勤行が終わると、朝食までに時間があるからと、お茶の接待を受けた。顔にまだあどけなさを残す小僧さんが案内してくれる。歳を訊くと十六と答えた。さほど広くない部屋に、住職をはじめとして、勤行に参加した十五人ほどが肩を寄せ合って坐る。お菓子の器がまわされ、南ドイツ出身という僧侶が一人ひとりにお茶を淹れてくれる。住職は気さくな人で、雑談のようなかたちで話を振っていく。分け隔てのない雰囲気に釣り出されて、かなりプライベートなことまで喋ってしまう人もいる。さりげない語り口に、真言密教にかんする初歩的な知識が織り込まれる。

 私もちょっとたずねてみたくなった。
「先ほどの勤行では、『理趣経』を中心にお経が読まれていたと伺いましたが、こちらのお寺ではよく読まれるお経なんですか」
「読まれますな。真言宗の常用経典といってええでしょう」
「『般若心経』みたいなもんですか」
「まあ、そうですな。なかなか面白いお経でな、最初にセックスのことを書いてありますのや」
「そうお聞きしています」
「妙適(びょうてき)ゆう言葉が出てきますんやが、これが男女合体、つまりセックスのことですわ」

 私の隣にはスイスから来たという妙適……じゃなかった妙齢のご婦人が坐っておられる。金髪で身長は百八十センチくらいありそうだ。たぶん日本語はわからないだろう。
「インドで生まれたお経やでな」住職はつづけた。「金剛頂経ゆう代表的な密教経典の一種なんやが、この金剛頂経ゆうのんが現実肯定的な面が強いんです」
「仏教というと禁欲的なイメージが強いのですが、真言密教の場合はそうでもないのですか」
「禁欲やのうて、欲を超越するゆうことを教えておりますな。超越して昇華する、純化する。私らの身体のなかに悪いもんはないんや、どんな悪いもんもええもんに変わる。毒を薬に変える。そういうことやと思います」

 隣のスイス人女性と、ふと目が合う。いわくありげな微笑み。どういうことだろう?

 『理趣経』を繙いてみる。序説と十七段の本文よりなる経典を全部読むのは大変だ。とりあえず序説の部分だけを見てみる。すぐにわかることは、振り仮名が漢音になっていることだ。普通、仏教の経典は呉音で読まれる。如来は「にょらい」であり、金剛は「こんごう」である。ところが『理趣経』では、それぞれ「じょらい」に「きんこう」と仮名が振ってある。菩薩は「ほさん」、如是我聞は「じょしがぶん」となる。まあ、どちらで読まれても、私たちの耳にはスペイン語とポルトガル語の違いみたいなもの、異国の言葉であることは変わりないのだが。

 住職の話にあった「妙適」も出てくる。「妙適清浄句是菩薩位」とあり、「妙適清浄の句、是れ菩薩の位なり」と読み下す。「妙適」はサンスクリット語の「スラタ」の訳語とされる。すると『理趣経』は男女合体、媾合、性交……それが菩薩の位、理想の境地であると言っているのだろうか。そんなことを、由緒正しい経典が言ってしまっていいのだろうか。しかも日本人好みにあっさり、さっぱりというわけにはいかない。具体的なまぐわいの様子が緻密にというか、執拗に述べ連ねられているのだ。よって詳細は省く。それにしても、驚くべきことである。こんなスキャンダラスなお経が、あの清浄な祈りの空間で朝っぱらから唱えられていたとは。
>>第十五話に続く
<<第十三話を見る