第十五話

 もっとも現在では、「妙適」を即物的な男女の性交ととらずに、比喩として解釈するのが一般的なのかもしれない。すなわち妙適とは自と他の対立がなく、無二平等ということである。自分だけが利益を得ようとする心がない、自他平等の世界を実現していこうとするのが、菩薩の位である……なんだ、つまらない。教論としては正しいのかもしれないが、空海がすっかり毒抜き脂抜きされて、品行方正な人権派になってしまったようで、じつに味気ない。あの過剰な空海、溢れんばかりの生命感を漲らせている人間が、そんな誰でも言えるようなことを伝えようとしたとは思えない。ここではもっと媾合の現場に降り立って、具体的に生々しいことが言われているのではないか。

 そもそも性にかんする私たちの目は、かなり曇らされている、というか欧米化されている。周知のように『古事記』の国生みは、イザナギとイザナミの露骨な性交シーンからはじまる。イチジクの葉で生殖器を隠すことからはじまった西欧文明とは、根本のところから趣を異にしている。隠すから暴きたくなる。秘められたものは、覗いてみたいと思う。少なくとも明治のころまで、日本人の性にたいする感覚は、かなり直截的でおおらかだったのではないだろうか。歌垣や混浴は性犯罪抑止の役割を果たしていただろう。さらに古い時代には、男女の媾合は神聖さとも、豊穣とも結びついていたのかもしれない。

 『即身成仏義』のなかで空海は、不空(ふくう)訳の『菩提心論』を引きながら、「父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す」と述べている。
 「父母より授かったこの身のままで、ただちに大日如来の境地を体得することができる」(頼富本宏訳)。「父母より授かったこの身」のなかには、当然性欲も含まれる。それは排除すべきものでも、抑圧すべきものでもない。聖か俗かを言えば、聖でもあり俗でもある。俗にして聖、俗であるがゆえに聖ということだろう。
 素人の飛躍した思い込みかもしれないが、私には『理趣経』という経典は、人間の倫理や道徳を突き抜けたところの、大きな規模の救済について言われているような気がする。

 親鸞の悪人正機のように、善悪を超えたところで何かを言おうとしているのではないだろうか。たとえば性欲に関して、いいとか悪いとか言ってもしょうがない。あるものはある。あるものを抑えようとする、排除しようとするところに無理が生じる。
 悪を排除しようとすることが、さらなる悪を生み出す。たいていの戦争はそうやって起こる。だから親鸞は「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言い方で、いわば善悪を超えた場所へ悪を解放しようとしたのだろう。
 『理趣経』においても、「一切蓋障(いっせいかいしょう)、および煩悩障(はんだつしょう)、法障(はっしょう)、業障(げっしょう)、たとえ広く積習するも必ず地獄等の趣に堕せず」などと、やはり徹底した言い方で、親鸞と同じような説き方がなされている。

 言葉を常識や良識の彼方まで放り投げて、そこから全肯定的なヴィジョンを掴み出してくるような文体、とでも言えばいいだろうか。こうした文体、語り口に空海は魅せられたのではないだろうか。それは彼自身の著作にも流れているトーンだ。

 そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるものではない。それは、われわれの心の中にあって、まことに近いものである。さとりの当体である真理は、われわれの外部にあるのではないから、この身体を捨てて、いったいどこにそれを求め得ることができよう。迷いとさとりは、いずれも自分自身の内部に存在しているのであるから、さとりを求める心を起こせば、実にさとりに到達することにほかならない。
           (『般若心経秘鍵』頼富本宏訳)

  空海の著作に一貫した、おおらかで透き通った肯定感は、私たちを幸福な気分にしてくれる。私たちの生を元気づけてくれる。この身をもってこの世に生まれたことにおいて、一人ひとりの者が宇宙と生命の原理を体現しており、どこまでも肯定された存在である。この世に生を受けたこと、そのこと自体が全面的に肯定され、祝福された出来事なのだ。祝福された生命を十全に生きよ。空海の書いたものから遥かに響いてくるのは、広々と深い励ましの音色だ。空海にとって真言密教とは、自らの生を十全に生きるために創案した「理屈」ではなかっただろうか。
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