第十六話

 高野山へ参詣する道は幾本もある。高野七口と呼ばれるように、かつては主なものだけで七つの参詣道があった。このうち九度山の慈尊院から山上西口の大門へ通じる表参道を高野山町石道(ちょういしみち)という。開山のおり、空海が木製の卒塔婆を建てて道標としたことに端を発するという。鎌倉時代になってから、朽ちた木の代わりに石造りの五輪塔形の町石が一町(約百九メートル)ごとに建てられた。高さ三メートル、三十センチ角ほどの花崗岩で、はるばる空海の生地讃岐から運ばれたものらしい。和歌山までの海路はともかく、こんな山奥まで、どうやって運んだのだろうか。

 まず向かったのは、九度山駅から徒歩三十分ほどのところにある慈尊院だ。開山に際して、空海が高野山の表玄関として伽藍を草創したという由緒正しい寺である。境内には安産、授乳、育児を願う乳房の形をした珍しい絵馬が掛けられており、いまでも多くの女性の参拝者を集めていることが窺える。この慈尊院の石段の途中に百八十番、最後の町石が建っている。起点は山上の根本大塔だ。それぞれの石は胎蔵界百八十尊に対応しているという。また大塔から奥之院まで設けられた三十六の町石が、金剛界の三十七尊にあたる。いかにも空海らしい、執拗なこだわりである。

 九度山駅から根本大塔まで約二十一キロ、歩くと七時間ほどかかるらしい。私はちょっとズルをして、慈尊院に参拝したあとは車で丹生都比売神社へ向かう。創建は約千七百年前に遡る。高野山より五百年も古い。祀られている丹生都比売は天照大神の妹で、空海を高野山へ導いた黒白二匹の犬は、その子どもの高野御子(たかのみこ)大神(狩場明神)が飼っていたというシナリオだ。そんな由縁もあってか、かつては当社に参拝したあと、山上へ向かうのが習慣だったらしい。いまは訪れる人も少なく、慈尊院の賑わいと比べてもひっそりしている。それだけに古い高野山詣での面影を偲ぶことができる、いい場所である。朱塗りの太鼓橋の上から、鳥居の向こうに望まれる社殿は、風格があって美しい。

 町石道を歩いてみると言いながら、車ばかり利用している。つぎに降りたのは、地名でいうと矢立というところで、六十町石が建っている。百二十も端折ってしまった。そこから五十九、五十八と遡っていく。しばらく歩くと、空海が袈裟を掛けたと言われる袈裟掛石や、結界を越えて入山しようとした母上が雷雨に襲われたとき、彼女を守るために息子の空海が巨大な岩を持ち上げたと言われる押上石など、名所と呼ばれる場所がつぎつぎに現れる。
 町石の間隔は、かなりアバウトと見た。一応、約百九メートルになっているはずだが、数十メートルくらいでつぎの石が現れたり、しばらく姿を見せなかったりする。

 ほとんどの町石が五輪塔の形をしているのは、仏教で説かれるところの五大(宇宙を構成する五つの物質)を表しているためだ。すなわち空、風、火、水、地という五つの構成要素を、それぞれ宝珠、半月、笠、円、方形にかたどったものが五輪塔である。各部分には、空、風、火、水、地を意味する梵字(サンスクリット文字)が刻まれている。
 これらの町石は、空海の時代にはなかったものだが、いま私が歩いているのは、紛れもなく空海も歩いた道であり、まわりに広がる自然の景観は、杉などの植林が進んだとはいえ、彼が身を置いたころとそれほど変わっていないだろう。

 険しい崖の周辺など、天然の林が残っているところは、亜熱帯を思わせる植物が多く目に付く。寒冷の地と聞いているが、多湿のためにこのような植物が育つのだろうか。山肌から顔を出した石を美しい苔が覆っている。この道を空海も、幾度となく行き来したはずだ。天皇も上皇も大名も同じ道を歩いた。そして弘法大師空海を慕う無数の名もない人たちが、千年ものあいだ往来を繰り返すことで、この山深い参詣道は保たれてきた。
>>第十七話に続く
<<第十五話を見る