第十八話

  二日目は阿字観を体験できる宿坊に泊まることになっている。実修は午後四時半から約三十分、ほとんど暖簾の外から店のなかを覗くようなものだけれど、まったく体験しないよりはましだろう。さっそく道場に案内される。正面に梵字の「阿」が掲げられている。日本人は前列に坐り、後列には外国人が。日本人は五人なのに、背後に居並ぶ外国人はざっと数えて三十人。ここは日本でいちばん外国人密度の高い場所かもしれない。
 二人の僧侶が、それぞれ日本語と英語で解説していく。

 阿字観は弘法大師空海によって我が国に伝えられた瞑想法であります。「阿」字は大日如来を表す一字の真言であり、よって「阿」字を念ずることは大日如来を念ずることになります。なるほど。わかったような、わからないような、わからないような、わかるような……。後方の外国人は大丈夫だろうか。若い僧侶はどんどん解説を進めていく。外国人の心配をしている場合ではない。ここでもまた、私たちは日本人であることの特権を取り上げられている。いや、生半可な知識があるだけ、外国人よりもさらに外国人かもしれない。
 空海の宇宙言語論ともいうべき『声字(しょうじ)実相義』では、「阿」の音は、「さとりの当体である仏〔法身〕の名前のこと」(北尾隆心訳)と説かれている。

 また『秘蔵法鑰(ほうやく)』においては、「阿字とはあらゆるものは本来生起しないという意味をもつ」(宮坂宥勝訳)と説明される。すなわち不生不滅であり、絶対的智慧であるところの大日如来をアナロジカルに象徴する。この文字を媒介として、行者の身体が宇宙という如来の身体と一体化するための修行、といったものであるらしい。
 半跏坐(はんかざ)に坐る。右足を左の腿の上に載せるのが真言式である。手は法界定印(ほっかいじょういん)を結び、軽く下腹のところにつける。阿弥陀如来が結んでいるオーソドックスな印だ。息の仕方、心のもち方、目は半眼で鼻先を見るなど、若い僧侶は丁寧に説明してくれるけれど、途中から面倒臭くなり、申し訳ないけれど、自由に心を遊ばせてもらうことにする。

 それにしても静かだ。夕暮れが近づくと山内は静けさに覆われる。この静けさは高野山の大きな魅力だろう。カラスの鳴き声がする。寺の鐘の音が聞こえてくる。しかるべき境地に達したならば、このカラスの鳴き声も、法身の説法として受け取ることができるのだろうか。こちらの能力が整えられたならば、「ゴーン」という鐘の音を聞いた途端に、はっと真理を悟ったりもするのだろうか。おそらく阿字観も、そうした宗教的な境地に達するための修練の一つなのだろう。
 しかし雑念と煩悩にまみれた私は、高校生のころ、父と一緒に坐禅を組んだときのことを思い出していた。その禅寺へは、小学校に上がる前から、何度も連れられて行った。何をするわけでもない。ただ父の行くところ、どこにでもくっついて行った。

 あのころはまだ乗り物はスクーターだった。山へ石拾いに行くのも、魚釣りに行くのも、スクーターの後ろの荷台に乗っていった。そんな懐かしい人の気配が濃くなる。誰かが私のそばにいるという、存在の温かみを感じる。
「おやじ?」
 やがて瞑想の時間が終わる。たった十五分ほどだけれど、道場を出る善男善女の顔は、日本人も外国人も晴れやかだ。並んで廊下を歩く外国人の青年にたずねてみる。
「どうだった?」
「ソー・ビューティフル、ソー・ミステリアス!」
 やっぱり、彼らのほうがわかっているのかもしれない。
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