第二十話

 釈迦と同じように、若い空海もまた人並み外れた鋭利さで、生と死の問題に打ち当たったように思われる。なぜ死はあるのか。生の行き着くところが死であるならば、人はなんのために生きているのか。まして生きることが戦乱や貧困や飢えと同義であるとき、そこに身を置く者を納得させるような生の意味を見出すことはできるだろうか。
苦界を生きる人たちにたいして、釈迦は欲望からの解脱を説いた。空海もまた宗教家として思想家として、釈迦とは別の答えを求めたように見える。しかし死からの強い光の照射をまともに受け止めようとしていることは、両者ともに共通している。

 けっして日陰の道を行くことはなかった。彼らに限らず、宗教家や思想家としての不可欠な資質であるに違いない。死は権力や富といった現世的な価値をすべて無化してしまう。死の光の下で私たちに残るのは、「人は死すべき存在である」という奇妙な平等性だけだ。この平等性が、おそらく人間にとってもっとも大切なものを開示する。それは宗教や思想のかたちをとって世俗にもたらされる。空海が体系化しようとした真言密教も、そうした一つのかたちであったように思える。

仏のいわく、菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす、と。
仏がおっしゃるのには、「さとりを求める心〔菩提心〕を原因とし、大いなるあわれみ〔大悲〕を根とし、手だて〔方便〕を究極的なものとするのである」と。(『大日経』宮坂宥勝訳)

 大切な人の死を悲しむとき、激しく誰かに心を奪われるとき、あるいは美しい自然や芸術に触れて、無我の境地に時間を忘れるとき、私たちは自分をなくし、誰でもないものになっていく。一人ひとりの固有な生の奥底で体験される深い思いを、空海は人類的普遍へと通じる回廊、菩提心の目覚めと考えたのではなかっただろうか。

 生きとし生けるものとそれらを取り巻く環境世界は、いずれもここで述べた仏の姿に通じている。もし、これを浅い・深いという縦の解釈を用いるならば、大きい・小さい、粗い・細かいといった違いがある。しかし並列的に見た横の解釈によれば、いずれも平等であって一つである。
(『声字実相義』北尾隆心訳注)

 空海が使っている「横の解釈(横の義)」という表現が面白い。親鸞にも「横超(おうちょう・横ざまに)」という表現が見られる。やはり空海と同じように、「竪(たて)」という言葉と対照的に使っている。空海によれば、この世界は如来の宇宙的身体として人格(ペルソナ)を有した聖なるものである。そして行者の身体は、如来の身体と本質的に同一の構造(相同性)をもっている。この点に、横の解釈として「平等」という理念が成り立つ根拠がある。つまり密教の立場からすれば、「平等」とは様々な修行をとおして、如来の身体である宇宙と一体化すること(成仏)によって獲得される世界観ということになりそうだ。

 「平等」という言葉を定義し直す必要があるだろう。それは「自他平等」といったかたちでは取り出すことのできないものだ。
 人間が「平等」であるのは、かたちにおいてではなく深さにおいてである、と考えるべきではないだろうか。一人ひとりの思いの深さが、私たちを同質のものとして、人類的普遍という場所へ向かわせる。それが先の『大日経』に言われている「方便(手だて)」ということなのかもしれない。「人類的普遍」などと言えば事は大仰になるが、高野山という場所は、何かそういうことを考えたくなる場所である。
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