第二十一話

 午前六時。奥之院では芥子色の僧衣を着た三人の僧侶が、御供所(ごくしょ)と呼ばれる建物を出る。二人の若い僧侶は小さな輿を担いでいる。なかには御供所で調理された、弘法大師に供える食事(生身供・しょうじんぐ)が入っている。先導するやや年配の僧は、維那(ゆいな)と呼ばれる統括責任者である。御供所の横に建つ嘗試(あじみ)地蔵に味見をしていただいたあと、三人は足早に拝殿前の石段を登り、食事を弘法大師の御廟へと運ぶ。午前十時半にも、同じ作法によって昼食が用意される。入定から約千二百年間、毎日欠かさずつづけているという。
 もともと日本人は、生きている者と分け隔てない作法をもって死者と付き合ってきた。ときには死者のほうが丁重に遇されたりする。

 うちの母なども、亡くなった父の祭壇に毎日、酒や季節の果物や菓子類などを供えている。月命日には手料理が加わっていたりする。酒はかならず、父の気に入りだった盃に注いである。ちなみに母自身は酒を嗜まない。普段はほとんど一滴も飲まないのに、祭壇から下げた酒は、自分で飲んでいるという。
「心臓がバクバクいって苦しいんだけどね」
 飲まなきゃいいのに、と思う。しかし本人は、酒は封を切って盃に注いであげなくては、可哀想な気がすると言う。誰が可哀想なの? もちろん亡くなった父だろう。死者となった父が賞味した酒を、夕方には自分がいただいて、心臓をバクバクいわせているわけだ。
 柳田国男によると、盆や正月というのは、先祖の霊がそれぞれの家に帰ってくる日であった。自分の家のご先祖様をお迎えするという意味で、とりわけめでたい日だったという。

 死者を祀るだけではなく、死者を招く。そして数日をともに過ごす。死者とともに食事をし、ときには会話を交わし、懇ろにもてなす。だから弘法大師に食事を供えることにも、私たちはそれほど違和感がない。日ごろから自分たちもやっていることが、少し儀式的に、やや手間暇かけて厳かに行われている、といった感じでもある。
 ところで「弘法大師」という名称は、いわゆる諡号(しごう)である。これは朝廷から与えられる名誉称号で、空海の場合は死後八十年以上経って、醍醐天皇から与えられている。僧にたいする諡号としては、最澄の伝教大師が最初とされるが、こちらは空海のものほど有名ではない。日蓮や親鸞など、他にも諡号を与えられた僧侶は何人もいるけれど、空海の場合だけが伝説化され、釈尊やキリストと同じように、「弘法大師」という名とともに信仰の対象となっていく。

歴史上の生身の人間だった空海が神格化され、如来菩薩に準じた扱いを受けるようになる。
 これも空海に限ったことではない。菅原道真は天満宮に祀られて天神様となり、徳川家康もやはり東照大権現という神になった。ただ同じように神格化されても、空海の場合は「お大師様」という呼び方が象徴しているように、もっと身近で「ともにある存在」と感じられているのではないだろうか。それは空海という一人の生身の人間が、まったく無理のないかたちで、いわば自然の風物のように神格化されたことを意味している。
 もちろん生前の空海を慕い頼りにしたのは、嵯峨天皇をはじめとする朝廷の有力者たちである。これは江戸時代になっても変わらず、諸大名は高野山の子寺と檀縁関係を結ぶようになり、現在も高野山には徳川家の霊台がある。

 また先にも触れたように、奥之院には名だたる戦国武将たちの墓が建ち、明治以降の実業家や富豪たちの立派な墓もある。それとともに「お大師様」と慕われ、広く庶民の信仰を集めているところが、弘法大師空海の大きな特徴であるように思われる。
 貴賤を問わず多くの人々が、あるいは広く人間の心が、空海の死後に生じた重力場に引きつけられつづけている。彼は宇宙的と言っていい規模と深度で、人間の普遍性を追い求めた宗教家であり、思想家であった。このことは私たちが人と人のつながりを考える上で、何か大切なことを示唆している気がする。
>>第二十二話に続く
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