第二十二話

 午前中の静かな時間、樹齢数百年に及ぶ杉の大木がそそり立つ石畳の参道を歩く。両側には苔に覆われた大小の古い菩提所が途切れることなくつづく。ここ奥之院に限ったことではなく、高野山のほとんどの場所で、寺院の庭や伽藍の前に佇むとき、まわりに近代的な建物が見えない。いくら紅葉が美しくても、枯山水が清浄な趣を湛えていても、京都などの寺の多くでは、少し顔を上げると無粋なビルが目に入ってしまう。その点、高野山は森と山に囲まれた本当の聖地という感じがする。

 諸国を巡っていた多数の高野聖を捕らえて惨殺し、高野山を包囲して攻めようとした織田信長も、その信長を討った明智光秀も、この奥之院に墓がある。もちろん本人たちの意思ではないだろう。名もない人たちが、宗派や敵味方を差別しない安らぎの場所を、弘法大師の御廟の近くに求めたものと思われる。あるいは空海の説いた真言密教という包摂の原理が、ここに不思議な理想郷を生み出したとも言えるかもしれない。そのような無数の無名の人々の願いや希望が込められ、投影された場所として奥之院はありつづけている。
入定から約千二百年、現在も弘法大師空海は奥之院の御廟に生きつづけ、人々の幸福と世界平和を祈願している。そんな話を高野山のあちこちで聞いた。

 僧侶たちを含め、人々が気軽な世間話の口調で口にすることを、むきになって否定する気はない。しかし現在、世界各地で起こっていることを思えば、「人々の幸福と世界平和を祈願する」といった言い方が空々しく感じられるのも事実だ。
 最新の研究によれば、実在したイエス(ナザレのイエス)は、出自としてはガリラヤの無学無名の貧農兼日雇い労働者であったという。彼は武力革命をも辞さない熱烈なユダヤ人ナショナリストとして逮捕され、ゴルゴタの丘で他の革命家たちとともに処刑された(レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』)。この寂しく死んでいった一人の国事犯を、神の化身へと変貌させたのは、生身の人間として革命に命を捧げたイエスの真剣さであり、さらには彼が処刑されたあと、その復活を信じた初期の信奉者たちの真剣さである。

 彼らは殴打され、鞭や石で打たれ、十字架にかけられても、イエスの復活を信じつづけた。彼らの命を賭した真剣さが、世界の底辺を生きる人々の心に届いた。そして小さなユダヤ教一派を世界最大の宗教に変貌させた。
 同じことが空海にも言えるのではないだろうか。生前の空海が、人間離れした膂力をもって成し遂げようとしたことの真剣さ、彼の教えを説いてまわった聖たちの命を賭したひたむきさが、おそらく人々の心に届いたのだ。そして人々の心の奥底に眠っていた願望が、この世に引き出されて、弘法大師空海の入定信仰を作り上げた。イエスの復活にも弘法大師空海の入定信仰にも、言葉をもたない人々の願いが投影されている。

 私たちはイエスや空海のような人に「生きて」いて欲しいのだ。彼らがこの世界を、自分たちとともに「生きて」くれていると考えることで、いかに多くの人々が救われてきたか。
 イエスや空海のような人が実在したことが、私たちを力づけてくれる。彼らがいてくれたことが、この世界を、人間という存在を、喜ばしいものにしてくれる。世界と人間を愛することを、私たちに教えてくれる。彼らのことを想い、考えることは、私たちがもちうる最上の時間の一つだ。信仰という心のかたちは、本質的にはそこにあるように思われる。
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