第二十三話

 現在、私たちは滅びの予感のなかを生きている。誰もが意識・無意識に、人類滅亡の日は近いと感じている。これまで地球上に誕生した生物の、九十九パーセントは絶滅したと言われている。ほとんどの種が死に絶えたということだ。ヒトもいずれは滅びる。常識的に考えて、そうならないほうがおかしい。なにしろ九十九パーセントだ。生き延びているのは、ゴキブリやカブトガニみたいなものたちだけだ。こうした幸運な一パーセントに、われわれ人間が入れるとはとても思えない。問題は、それがいつかということだ。数万年先ということはないだろう。せいぜい数百年先か、ひょっとすると数十年先かもしれない。

 危機的な財政状況のなか、贅沢三昧をつづけるルイ十五世の愛人が、奢侈を咎められたときに言い放ったとされる言葉。
「洪水が来るなら、私が死んでからにしてちょうだい」
 いまや誰もが、この愛人みたいなものではないだろうか。みんなお金の話しかしなくなっているのは、そのせいかもしれない。この社会に生きる多くの者が、わが身の保身と延命にしか興味をもてなくなっている。そんなふうにしか生きられないことが、私たちに宿痾のごとく取り憑いた不幸の正体かもしれない。なぜ、この世界に存在していることを嬉しいと思えないのだろう。この世界に生まれたことを、災厄のように感じてしまうのはなぜだろう。
 ルイ十五世の愛人の言葉の横に、私はパブロ・カザルスのつぎのような言葉を置いてみたくなる。

 一秒一秒、私たちは宇宙のあらたな二度と訪れない瞬間に、過去にも未来にも存在しない瞬間に生きているのだ。(中略)だから子供たち一人ひとりに言わねばならない。君は自分がなんであるか知っているか。君は驚異なのだ。二人といない存在なのだ。世界中どこをさがしたって君にそっくりな子はいない。過ぎ去った何百万年の昔から君と同じ子供はいたことがないのだ。ほら君のからだを見てごらん。実に不思議ではないか。足、腕、器用に動く指、君のからだの動き方! 君はシェイクスピア、ミケランジェロ、ベートーヴェンのような人物になれるのだ。どんな人にもなれるのだ。そうだ、君は奇跡なのだ。(アルバート・E・カーン編『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』吉田秀和・郷司敬吾訳)

 人類滅亡というのは、私には一つの通俗のように思える。それは生の果てに死があるという通俗と同種のものだ。

 いつか人は死ぬ。そんな当たり前のことを言ってなんになるだろう。同様に、人類は粛々と滅びの道を歩んでいる。たしかにそうかもしれない。だからなんだ? もはや引き返せないという前提でそんなことを言って、いたずらに世の中を暗くしてもしょうがないだろう。
 空海は『弁顕密二教論』のなかで、鳩摩羅什(くらまじゅう)訳の『大智度論』からつぎのような箇所を引用している。

あらゆるものは、生でなく、滅でなく、不生でなく、不滅でなく、非不生滅でなく、非非不生滅でもない。すでに迷いの世界を抜け出てしまっているので、空でなく、不空でもない。以上は、もろもろの言葉の虚構を捨て去り、言論を絶して深く仏の教えに入った状態である。(頼富本宏訳注)

 「死(滅)」という言葉は虚構であると言われている。それを「死」と呼ぶ必要はない。「生」と呼んだってかまわないのだ。現に私たちは親密な死者のことを、「生きている」と感じているではないか。この実感に就くならば、死は生である。同様に、「人類」という言葉も虚構である。そんなものはどこにもいない。見ることも、触れることもできない。カザルスが言うように、驚異として、奇跡として、一人ひとりの固有な生があるだけだ。すると人類滅亡は、虚構に虚構を重ねた虚構ということになる。
>>第二十四話に続く(9月9日発行)
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