第二十四話

 事実としての死はある。そして死という事実を変えることはできない。だが事実をとらえる眼差しを変えることはできる。同じ事実を、別の眼差しで見ることができるのだ。空海の思想も人々の信仰も、その中心には「死」という語りえないものがある。この語りえない死は、弘法大師空海と無名の人々という差異をも無化する。このとき弘法大師空海の入定は、一つの比喩と解されるべきものになる。いかなる比喩なのか?
 死は生の果てにある虚無という常識にたいして、反省的な光を投げかける比喩である。

 空海にとって、真言密教の目的は世界を変えることではない。世界を正しく見ることである。正しく見ることによって、それを見ている私が変わる。前回に引用したカザルスの言葉は、世界を正しく見ている者の言葉である。世界を正しく見ることができれば、この世界に自分が存在していることを「驚異」と感じることができる。一つの生ける奇跡と感じることができる。そのとき世界にある私は、すでに変わっている。私が変わることによって、世界もまた変わりうるものになっていく。
 たしかに状況は絶望的だ。理性的に、客観的に考えるほど、絶望感は深まっていく。内も外も真っ黒な絶望に塗りつぶされていて、抜け道はどこにもないように見える。何よりも絶望的なことは、私たち自身がまったく変わらないことだ。変われないことだ。

 この絶望から抜け出すためには、まず私たちが変わらなければならない。どうやって? 世界を正しく見ることによって。世界を一元的に、一面的に見るのではなく、別の眼差しで重層的に見ることによって。空海が真言密教というかたちでもたらそうとしたものは、ミクロからマクロまで、生物から無生物までを調和的に見ることのできる視線ではないだろうか。この視線、眼差しを、彼は「悟り」と言ったのではないか。
 空海のことを考えていると、どうしても親鸞に思いが及んでしまう。親鸞もまた自身の思想の中心に、往相(おうそう)と還相(げんそう)という重層的な視線を導き入れている。

菩薩戒経にいはく、
「出家の人の法は、国王に向ひて礼拝せず、父母に向ひて礼拝せず、六親に務(つか)へず、鬼神を礼せず」と。
(親鸞『教行信証』)

 ここで親鸞が「出家」と言っているのは、死後と読み替えることができる。つまり死後を生きる生であり、現世にある死後、親鸞の言葉では還相にある生の様態のことである。死はすべてを無化する。そのなかには当然、国家の死後や、国家的な権威権勢の無化も含まれる。そのような死を媒介として現世にある者は、富や権力といった現世的な価値も、人種や民族や宗派といった地上的な差異も、さらには親子血縁といった生物学的な差異までもが無化され、ただ「死すべき存在である」という平等性のもとに抽象化されている。
 死の光の下で私たちは、誰もが一人の人間、ただ一個の生命である。生前に何者であったかにかかわらず、死後は匿名の死者でしかない。

 そのようなものとして、すでに私たちは現世においてありうる。この身のままで即座にありうる。空海が生涯を賭して説こうとした「即身成仏」の教えとは、そうしたものではないだろうか。
 高野山奥之院において永遠なる定に入っているとされる弘法大師空海。それは一篇の詩であり劇である。この開かれた詩、無言の劇は私たちに、すでにあるものに従うのではなく、いまだないものであれと教えている。私たち一人ひとりがいまだないものであるとき、人類滅亡への道は、同時に、人類創生への道でもありうる。人間はいまだ発明されていないと言うべきかもしれない。
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