第三話

 子どものころには、家の近所でもしばしばお遍路さんの姿を見かけた。いまでもおぼえているのは年齢不詳の小柄な女性で、白装束に菅笠、杖をついて、手には小さな鈴を持っていた。顔は日に焼けて皺が深かった。黄ばんだ白装束といい、全体にどこか薄汚れた感じがあった。子どもの目には「お婆ちゃん」と映ったが、実際はもっと若かったのかもしれない。彼女がやって来るたびに、祖母は小銭などをあげていたように思うのだが、これも幼い日のおぼろげな記憶で定かではない。祖母は私が小学校に上がって間もなく亡くなった。

 「札所」と呼ばれる八十八箇所の寺をまわる、いわゆる四国遍路については、その成立時期にかんしても、また八十八の札所がどのような経緯によって定められたかについても、はっきりしたことはわからないらしい。大師信仰とともに広がったことは間違いないのだろうが、それ以前にも四国の海岸道を歩いて修行する者は多くいたという。これが弘法大師空海の入定(にゅうじょう)から何世紀も経って、創作や伝説を交えた信仰の広まりとともに、お大師様を慕って各所を巡る現在のような姿に変わっていく。

 最初は僧による修行や参拝が中心だった。それが江戸時代のころから、お伊勢参りや熊野詣で、善光寺参りなどとともに民衆化する。とはいえ千四百キロ近くある行程を歩き通すのは、並大抵のことではなかっただろう。道路や宿泊設備が整備された現在でも、徒歩による四国遍路には四十日から六十日ほどの日数がかかると言われている。まして橋も渡しも少なく、道路事情の悪い時代には、お伊勢参りなどに比べて遥かに困難だったはずだ。とても物見遊山の観光気分で出かけられるものではない。彼らを厳しい巡礼の旅に押し出すためには、よほど強い動機が必要だったに違いない。

 遍路をしている者に、地元の人たちが食べ物や賽銭を差し出すことを「お接待」という。ときには宿を提供することもあったらしい。こうした「お接待」によって、生涯を巡礼に費やすことができた人々も数多くいたことだろう。いまでも高知あたりの田舎へ行くと、往来するお遍路さんにお茶や漬物、自家製の菓子などを振舞う「お接待」の風習が残っているところがある。この無償の援助は、弱者に手を差し伸べるという人々の善性の現れでもあるとともに、生涯を巡礼の旅に費やす者を、お大師様の生まれ変わりとして遇する気持ちも込められていたのかもしれない。あるいは「同行二人(どうぎょうににん)」の言葉どおり、お遍路さんの隣を、目に見えないお大師様が歩いているという心だったのだろうか。

 私のおぼろげな記憶のなかでも、わずかな施し物を差し出したあと、立ち去っていく小柄な遍路の女性に掌を合わせていた、やはり小柄な祖母の姿が浮かんでくるのだが。
 舗装もされていない土埃の道に、春の暖かな日差しが落ちている。燕が家々の軒下に巣を作るころ、まだ車の通りの少なかった路上で、子どもたちは遊び惚けている。すると小さな鈴の音とともに、白装束に菅笠をかぶったお遍路さんが歩いてくる。子どもたちはしばし遊びを中断して、彼女が歩いていくのを見送る。いたずら盛りの悪ガキながら、たわむれの言葉をかけることはなかったように思う。その姿は貴卑を超越して、損ない難いものに感じられていたのかもしれない。
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