第七話

 最初に大門へ向かう。私たちは車だが、山内には路線バスも走っている。幾つかの路線があるので、駅前の案内所でたずねるといいだろう。二層になった朱塗りの門は、高さが二十メートル以上ある。高野一山の総門であり、両脇に金剛力士像が忿怒の形相で門を守っているところなどは、東大寺などの南大門を思わせる。しかし高野山の大門は、なぜか西を向いている。壇上伽藍の中門は、しきたりどおり南を向いているのに、この大門だけが西向きなのだ。西方浄土を望んでいるとも、空海が留学した長安の方角を向いているとも言われる。

 少し史実的なことに触れておけば、二十歳で出家した空海は、三十一歳の延暦二十三年(八〇四年)に最澄らとともに遣唐使船で唐へ渡る。長安の都で恵果阿闍梨(えかあじゃり)という高僧について真言の教えを受け、二年余りで真言密教の奥義を極め、「阿闍梨遍照金剛」の称号を得たのち、大同元年(八〇六年)に帰国する。帰国後は幾つかの寺を転々とし、やがて高尾山寺に入り、東大寺の別当なども兼任しながら、嵯峨天皇から高野山を賜ったのが弘仁七年(八一六年)というから、帰国して十年後になる。これが高野山金剛峰寺のはじまりとされる。
 この時点で、彼には十九年の年月しか残されていない。承和二年(八三五年)三月二十一日、弘法大師空海は六十二歳で入定し、即身成仏を遂げる。

 空海の入定後も、高野山の造営は多くの弟子たちによって引き継がれ、栄枯盛衰を経て現在の姿になる。
 空海が長安で過ごしたのは約二年間、三十二歳前後のことだから、留学生としては若くない。当時の感覚からすれば、「青春」どころか立派な大人だ。長安を模して高野山を造営したのは事実だとしても、そこには追慕以上の理由があったはずだ。過ぎ去りし日の長安を偲ぶよすがを造ったというには、彼が企てたことはあまりに大がかりであり、実現可能かどうかさえわからないほどの難事業だった。唐の都として殷賑を極めた長安は、そこに重ね合わされる高野山は、空海にとってどのような場所だったのか、どのような場所であらねばならなかったのか。

 空海の時代、国際都市と呼べるものは、長安の他にはバグダッドくらいだった。
 東西を結ぶシルクロードの東の起点でもあった長安には、ペルシア人をはじめとする異民族も数多く暮らしていたと言われる。規模は小さいものの、現在の高野山は、まさに紀州の山奥に忽然と現れた国際都市といった様相を呈している。外国の若者たちも数多く訪れる。彼らはジーンズにバックパックという気軽ないでたちで街を歩き、宿坊に泊まって座禅を組んだり瞑想したりしている。そんな情景を、空海はどのように見るだろう。案外、若いころのおれに似ている、と思うかもしれない。
 讃岐の地方豪族の子弟である空海は、人並みに大学で学ぶために奈良へ上る。しかし一年ほどで早々に中退してしまう。大学での講義が物足りなかったのか、貴族の門閥主義に嫌気がさしたのかわからない。

 おそらく両方だろう。学歴社会をドロップアウトした彼は、山中をほっつき歩いたり四国の海岸を漂泊したりと、まさにヒッピーのような境涯に身を置く。世捨て人のイメージはない。いつか「起業」してやろうという野望を胸に抱いていたのではないだろうか。彼の起こす事業はグローバルなものとして、朝廷や国家を呑み込む規模のものでなければならなかった。
 今日、高野山を闊歩する「紅毛碧眼」の若者たち。彼らも若き日の空海のように、自らが生きることの指針のようなものを求めて、こんな東海の島国の山のなかまでやって来たのだろうか。
>>第八話に続く
<<第六話を見る