第八話

 今年(二〇一五年)、高野山は開創千二百年を迎える。記念の大法会が執り行われ、長く焼失していた中門が再建された。空海が嵯峨天皇に上表文を書いて高野山を賜った、弘仁七年(八一六年)を起点としている。
 まず構築がはじまったのは、大小の堂塔が建ち並ぶ壇上伽藍と称される一帯で、なかでも根本大塔と御願堂(現在の金堂)であったらしい。また寝起きに必要な僧房や食堂なども同時に着工されただろう。しかし事業は思うように進まず、空海の在世中に落成を見たのは、御願堂とその他の小堂だけであったと言われている。

 根本大塔でさえ、落成したのは仁和三年(八八七年)ごろというから、空海の死後五十年余りも経っている。
 開創前後の年譜を少し整理しておこう。唐から帰国したのが大同元年(八〇六年)、空海は三十三歳である。不思議なことに、帰国後三年間ほどの消息は記録に残っていない。しばらく大宰府に留め置かれ、観世音寺に滞在していたという説もある。また和泉国槇尾山寺(まきのおさんじ)にいたと推定するむきもあり、司馬遼太郎もこの説をとっている。しかし史料によって確かめられるところでは、空海が嵯峨天皇の勅許を得て平安京に戻るのは大同四年(八〇九年)のことである。すでに三十六歳になっている。

 とりあえず高雄山寺(現在の神護寺)に入り、翌年には東大寺という、当時の最高権威の寺の別当に任命されている。朝廷や天皇といった世俗権力との関係も良好だったのだろう。本人が望んだことではなかったかもしれないが、政治的勢力は空海のまわりに集まってくる。こうした地ならしがあったために、高野山の造営についても容易に勅許を得ることができたのだろう。
 一方で、空海はきわめて多忙であったはずだ。彼が住した高雄山神護寺といえば京都市の北西、単純に距離だけを考えても高野山は遥かに遠い。さらに別当として東大寺の面倒も見なければならない。ときどき奈良に行くこともあっただろう。とても私寺の造営に専念するというわけにはいかない。

 こうしたなかで弘仁十年(八一九年)、いよいよ高野山の伽藍建立に着手する。しかし工事は遅々として進まない。さすがの空海も心急く思いであったに違いない。そこで弘仁十四年(八二三年)、嵯峨天皇より与えられた東寺を密教の根本道場にしようとする。高野山を諦めたわけではないだろうが、自分が存命中の造営については、ある程度見切りをつけたのかもしれない。
 高野山の地形が工事の進捗を困難にしたであろうことは、想像に難くない。空海が造営を思い立った地は千メートル近い山の上だ。細く険しい山道、鉄道も車もない時代に、重い資材をほとんど人力だけで運び上げるのはさぞかし大変だったろう。

 また冬場は雪も降れば氷も張るという厳しい自然環境である。厳寒の気温は氷点下十数度にもなるという。この難事業が、空海の入定後も途中で投げ出されることなく弟子たちによって引き継がれ、ついに完成を見たことが、むしろ奇蹟的なことのようにも思える。
 しかも空海が企てたことは、いわゆる国家プロジェクトの類ではまったくない。極端な言い方をすれば、空海の望みと好みを反映した、私的な聖地として造営は進められた。つまり土地こそ無償で賜ったものの、造営の費用にかんして私費で賄わなければならない。巨額な資金は、主に有志からの寄進である。さすがの空海も苦労したようで、人々に寄進を乞う書状や礼状が残されている。

 空海弘法大師にたいして、私たちはスーパーマンのようなイメージをもっている。空海によって掘られたという溜池は、四国をはじめとして全国に多数残る。もちろん大半は伝承として弘法大師の名を付されたものだろうが、なかには満濃池のように、空海が実際に指揮にあたったものもある。そうしたイメージをもってすれば、高野山の造営など一夜のうちに成ってしまいそうだ。それは多分に入定後、伝説を交えて高まっていった声望でもあったのだろう。在世中の生身の空海の知名度は、私たちが想像するよりもずっとささやかなものだったに違いない。
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