Senir Motor Drive

'Singularity'

"ただいまカリフォルニアを走行中"
文:片山恭一
写真・Driver:小平 尚典  AD:東 裕治

Senior Motor Drive

'Singularity'

"ただいまカリフォルニアを走行中" 文:片山恭一

写真・Driver:小平尚典  AD:東裕治

Scene15

P=NP?

 今日は長い橋をたくさん渡った。まずはゴールデン・ゲート・ブリッジ。つぎにリッチモンド・サンラファエル・ブリッジ。バークレーを見学したあとは、オークランド経由でサンフランシスコ・オークランド・ベイ・ブリッジ。タワー・オブ・パワーの名盤に『バック・トゥ・オークランド』というのがある。アルバムのジャケットに写っているのがサンフランシスコ・オークランド・ベイ・ブリッジだ。
 午後5時にサンマテオに入る。まだ夕暮れの気配は遠い。Mr. Paul Saffoと会うことになっているのは、隣町のバーリンゲーム(Burlingame)というところ。路上のパーキングに車を停めて、少し通りを歩いてみる。感じのいい本屋がある。外国の街で書店を見つけると、とりあえず入ってみたくなる。パリはセーヌ川沿いに並ぶ屋台みたいな本屋が楽しい。ソルボンヌ近くの店で自分の本を見つけたときは、ちょっとうれしかったな。『Gridare amore dal centro del mondo』だって。5.9ユーロ。もちろん買いましたよ。店内でジョゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』を見つける。「50周年記念版」となっている。18ドル。アマゾンに注文すれば日本でも買えるのだけれど、旅の思い出に買い求める。



 午後6時になったので、待ち合わせのレストランへ。ボブの親友、Mr. Paul Saffoはとても気さくでやさしいおじさん。肩書きは「未来学者」でいいのかな? 弁護士の資格ももっている多才な人だ。スタンフォード大学のデザイン・スクール(Institute of Design at Stanford)の先生をやっている。ワインを飲みながら雑談。サフォーさんはボブのことを、親しみを込めて「タヌキ」と呼ぶ。What’s mean ?
 日本語の「たぬき」には、とぼけた顔をしながら、実際には悪賢い人といった意味がある。ボブは悪賢くはないけれど、仕事に関しては手抜かりがない。私もしばしば彼の実務能力の高さに感心させられる。そういうところをサフォーさんは、ちょっといたずらっぽく「タヌキ」と呼んでいるのだろう。いいなあ、こういう関係は。
 ボブはサフォーさんに講演の依頼をしている。10月に東京でシンギュラリティをテーマに話をしてほしい。「10月か……」と言って、サフォーさんは手帳を開く。おお、彼も私と同じ手帳派か。とはいえ革のカバーのかかった上等そうなやつだ。私が使っている税込130円のスパイラル・ノートとはずいぶん趣が異なる。それはともかく、サフォーさんはスケジュールがかなりタイトな様子。多忙な人なのだ。
 「あとでまた連絡するから」などとボブは言っている。

 サフォーさんは私のほうを見て、「これだからね」というように肩をすくめる。私はボブが席を外しているあいだにたずねてみる。
 「シンギュラリティについて、サフォーさんの考えを聞かせてください」
 彼は私の手帳を引き寄せると、癖のある字で何か書き付けた。

 P=NP?

「???」
 すると再び手帳を引き寄せ、「P=POLYNOMIAL」「NP=NON-POLYNOMIAL」と書いてくれる。深みに足を踏み入れつつあることを自覚しながら、さらにたずねた。
 「これがシンギュラリティってことですか」
 サフォーさんはゆっくりとわかりやすい英語で説明してくれているのだが、私のリスニング能力では10分の1も理解できない。それなら最初からたずねなければいいのに。かろうじてクルト・ゲーデルの名前が聞き取れた。すると不完全性定理の話をしているのか? 私はカシオの電子辞書を取り出し、「POLINOMIAL」の意味を調べてみる。「多項式」と出ている。それがわからんちゅうの。辞書のモードを広辞苑に切り替えて、「多項式」を検索する。
 「なんか忙しそうだね」戻ってきたボブがたずねる。
 「ちょっと黙っててください」
 あったぞ。「代数式において、ある特定の文字については加法・減法および乗法(累乗を含む)以外の演算を含まない場合、この式をその文字についての整式という。多項式」う〜ん、まだようわからんが、要するに足し算と引き算と掛け算と累乗を組み合わせた計算式ということか? つまり計算ってことでいいのか? サフォーさんに訊いてみたいが、英語がわからん。

 ワインと食事をご馳走になった私たちは、いい気分でギルロイのモーテルへ戻る。サフォーさんが勧めてくれたサーモンのステーキは美味しかった。ここだけの話、ボブは軽微な飲酒運転である。
 「すっかりご馳走になっちゃいましたね」
 「ポールが東京に来たときは、うなぎでもご馳走してあげよう」
 あくまでも召喚するつもりだ。
 「シンギュラリティについて考えているんですけど」
 「うん。ポールにいろいろ訊いてたね」
 「謎の数式を提示されたんだけれど、全然わかりませんでした」
 「明日、またスタンフォードで会うから、そのとき訊いてみればいいよ」
 ムーアの法則というのがある。コンピュータの処理能力は18ヵ月ごとに倍になるというもので、インテルの創業者の一人であるゴードン・ムーアが1965年に唱えた。シンギュラリティという考え方も、処理能力の指数関数的な増加ということが前提になっている。どうも私たちには、この指数関数的な増加というのが、実感としてわからないのではないだろうか。たとえば一つの細胞が41回分裂を繰り返すと1兆個の細胞になる。人間の細胞の数は60兆とか、いまはもっと少なくて37兆くらいとか言われているけれど、1兆個の細胞は原始的な生命と考えていい。生命とは指数関数的な増加である、と定義することもできるかもしれない。
 子どもが親に小遣いの交渉をする。
 「ぼくのお小遣い、1日1円でいいよ」
 「たった1円でいいのか」
 「そのかわり1週間ごとに2倍にしてくれる?」
 親はちょっと考えて、「ああ、いいよ」と答える。交渉成立。41週間後、親は子に1兆円の小遣いを与えねばならない。小遣いの指数関数的な増加。シンギュラリティ!



 次回へ続く…
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 Senior Motor Driveの目次
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話 第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話 第十五話 第十六話 第十七話 第十八話 第十九話 第二十話

文:片山恭一 写真:小平尚典 
アートディレクション:東裕治

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