Senior Motor Drive

'Singularity'

"ただいまカリフォルニアを走行中"
文:片山恭一
写真・Driver:小平 尚典  AD:東 裕治

Senior Motor Drive

'Singularity'

"ただいまカリフォルニアを走行中" 文:片山恭一

写真・Driver:小平尚典  AD:東裕治

Scene2

気分を変えたいんだ

 猫が死んだ。私のかわいい猫が死んでしまった。2016年5月7日午後9時15分。心臓の鼓動が弱くなり、ゆっくりと間遠になっていき、ひとつ大きく息をすると止まってしまった。自分で最期の場所と定めた寝室のソファの下から、猫は真っ黒い大きな目で私を見つめたまま、どこかへ行ってしまった。
 最後に何か言おうとしたみたいだったけれど声は出なかった。もし声が出ても、私には「ニャー」としか聞こえなかっただろう。それでももう一度、声を聞きたかったな。猫は私のなかの何かを持っていってしまった。そして何かをもたらした。失われたものによっても、もたらされたものによっても、私は豊かにされた。一匹の猫が、贈り物をしてくれたのだ。

 傷心の日々。私は旅の師匠であるボブに電話をかけた。
 「久しぶりにどこかへ行きませんか」
 「どこがいい」
 「できるだけ遠いところがいいな」
 「スペインなんてどうだい」
 「いいですね。行きましょう」
 「先月行ってきた。良かったぞ」
 「連れて行ってください」
 「だから先月行ってきたと言っているだろう」
 「これから行くところの話にしてくれませんか」

 猫の名前はフクちゃん。推定年齢7歳。公園に捨てられていたのを、仕事帰りの長男が拾ってきて飼いはじめた。「フクちゃん」という名前は次男がつけた。1年半ほど前に腎不全を起こして死にかけた。ひところは良くなっているように見えたが、その後も徐々に悪化しつづけていたらしい。今年になってからは、自宅で点滴をしながら細々と命をつないでいた。好きだったキャットフードは、ほとんど食べることができなくなった。無理に与えると吐いてしまう。すっかり痩せて、体重は元気だったころの半分以下に。きれいだった毛も、亡くなるころにはボサボサだった。
 それでも猫は懸命に生きようとした。寂しくなると私のところへやって来た。そういうときは仕事を中断して抱き上げる。肉の落ちた咽喉や首、冷たい耳などを撫でてあげる。腕のなかで、猫はじっと私を見ている。頬はこけて、目だけが大きい。黒い瞳は澄んで、そこに私が映っている。つぶらな瞳に映っているのは悲しみだ。悲しみと愛おしさ。他には何もない。私たちのあいだに、他のものが入り込む余地はない。
 自分を好きになることは難しいけれど、猫の目に映った自分は好きになれそうな気がする。その目に映った私は善良な人間だ。暴力の匂いがしない。人を殺めたり、自分を殺めたりしそうにない。やがて猫は腕のなかでうつらうつらしはじめる。取り残されて、ちょっと寂しい気分だ。もう一度、目を開けてくれるのはわかっているけどね。いつまでもその瞳に、私を映していておくれ。

 「長男は大阪にいるんですけど、連休で帰省した数日後に猫は亡くなったんです。まるで自分を拾ってくれた命の恩人との再会を待っていたかのように。その健気さに、こうして喋っていても目がウルウルしてきます」
 「泣くんじゃないぞ」
 「猫に話しかけるときって、自分のことはおとうちゃんなんです」
 「おとうちゃん!」
 「フクちゃんがいなくなって、おとうちゃんは寂しいよとか、いまでもひとりごとを言ったりして自分でも気持ち悪いんです」
 「聞いているほうはもっと気持ち悪いぞ」
 「どこか連れて行ってくれますか? さもないと、この話、もっとつづけますよ」

 なんの変哲もない私のような人間が、こんなに豊かに生きることができるのである。一匹の猫のおかげで。一匹の猫の死を、肉親の死のように悲しみ、悼み、切ない気持ちになることのできる、そのような生き物であるのだ、人間は。この惑星に生存するあらゆる生命体を眺め渡しても、人間という種は生物学的なシンギュラリティ、ひとつの特異点として生存している。

 つまりこういうことではないだろうか。70億の人類、一人ひとりが地表のあちこちに特異点として生存している。きみや私が一人の人間であることからして、すでに無条件に寿ぐべき出来事なのだ。その人間を充分に生きることなく、十全に活用することなく、なぜ終わったことにしようとするのか。どうして人間が終わりかけているなどと気安く言いたがるのか。
 「そうでしょう、ボブ」
「わかった。わかったから、人類の悲劇を一身に背負っているような話し方はやめてくれないか。連れて行こうじゃないか。アメリカはどうだ。とりあえず西海岸だ。私は写真を撮るから、きみは文章を書きたまえ。どこかに売り込んで、旅の経費くらいは回収できるように計らってみよう」
 さすがはボブだ。旅の師匠だけのことはある。ところで話は猫の目のように変わるが、私はもともと眠るのがあまり得意ではない。コンピュータではないから、そう簡単に思考のスイッチをオフにすることができない。目をつぶっているあいだも脳は起きている。腹立たしいことだ。国内では悪政がつづき、国外ではテロと紛争があとを絶たない。こんな世界で呑気に眠れるわけがないではないか……などと不眠の原因を、無能な政治家やグローバリゼーションになすりつけたりして。
 最近は歳のせいか、夜中に目が覚めると朝まで眠れないこともある。とくに旅行中は気が高ぶっていて眠れない日がつづく。さらに海外では時差の問題が加わる。ここはどうしても睡眠薬を携帯する必要がある。
 「先生、レンドルミンを出してください」
 そしたらかかりつけのお医者、「グッドミン」という冗談みたいな名前のジェネリックを処方してくれた。う〜ん、名前からして効きそうにないぞ。渡米を前にして、私は不安だ。

 次回へ続く…
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 Senior Motor Driveの目次
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話 第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話 第十五話 第十六話 第十七話 第十八話 第十九話 第二十話

文:片山恭一 写真:小平尚典 
アートディレクション:東裕治

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