連載第十三回:雑誌や広告を飾った少女たち

 愛くるしい表情としぐさで人々を和ませるきいちの少女たちは、 ぬりえやきせかえの世界を飛び出し、文具や食器や衣類など、 さまざまなグッズをも飾ってきました。 また企業のイメージキャラクターとしてポスターを彩り、 テレビCMに起用されたこともあります。 名もない少女たちにもかかわらず、その存在感でグッズを魅力的にし、 また企業のキャンペーンガールとしての大役まで果たしてしまう……。
きいちのぬりえグッズ
ぬりえグッズ  ドラえもんやキティちゃんなど、私たちのまわりには、 長年愛され続けるキャラクターが数多くありますが、 きいちの少女たちも、それらに負けず劣らず、なかなかチャーミングです。
 今回は、そんなきいちの少女たちの幅広いジャンルでの“活躍ぶり”に 焦点を当ててみることにしました。

グッズの世界に進出

 昭和20年代、ぬりえブームが起こったときには40人以上のぬりえ作家がいたといわれ、なかでもいちばん人気だったのがきいちのぬりえを描いた蔦谷喜一さん。ぬりえのほか、きいちのきせかえもヒット商品となりましたが、喜一さんが販売しようと考えていたものは、じつはそれだけではありませんでした。
 ブームが訪れる前、ぬりえ以外にも女の子が遊べるものを作りたいという思いから自費でハガキしおりなどを作っていたのです。 喜一さんは、自ら描く少女たちの人気をすでに予感していて、それを確かめるためにハガキやしおりなどを作ったのかもしれません。
 ところが、ひとたびぬりえブーム、きいちブームが訪れると、彼は日々の制作に追われ、グッズづくりどころではなくなってしまいます。
 ぬりえやきせかえのメーカー側も、良好な売れ行きに満足していて、文具や雑貨にきいちの少女たちを起用しようとまでは考えませんでした。それよりもぬりえやきせかえの新作を少しでも早く店頭に並べることが先決。メーカーが喜一さんに、家具のほか、なんと家までプレゼントして、制作のための環境を整えたといえば、きいちのぬりえがどれだけドル箱商品だったか、理解してもらえるのではないでしょうか。
 喜一さんの予感に間違いのなかったことが、やがて証明されます。
 ぬりえブームは去ってしまいますが、きいちの少女たちは忘れ去られることなく、さまざまなグッズを飾ることになるからです。
 きいちグッズが作られ始めるのは昭和50年(1975)頃からのことで、喜一さんはすでに60歳を過ぎていましたが、レターセットはもちろん下敷きクリアファイルジグソーパズル缶バッジ食器バッグ等々……。きいちのあどけない少女(ときには少年)をキャラクターに見立てた商品が次々と生み出されていきました。

イメージガールとしても大活躍

にっこりのちから  三頭身の少女たちをイメージガールとして用いた企業も少なくありませんでした。
 小首をかしげ、かすかに微笑むような表情には誰もがほっこりと癒されます。
 懐かしさを覚えるだけでなく、なぜだか元気までわいてきます。
 平成5年(1993)、テレビ朝日は、こうした少女たちの顔だけで構成されたポスターを考案すると、顔の横にしゃれたキャッチフレーズを書き込みました。

――にっこりの、ちから。

 当時の担当者は、このにっこりパワーに「バブルがはじけて精彩を欠いた世の中を元気にしたい」という望みを託しました。きいちの少女たちが登場するテレビCMは話題となり、ポスターを求めてテレビ局を訪れる視聴者も少なくなかったと聞いています。
 テレビ朝日のほか、サントリーラフォーレ原宿など、きいちの少女たちはさまざまな会社やショップのイメージアップに貢献してきたともいえるでしょう。
左上:テレビ朝日のポスター、左:ラフォーレ原宿(ショッピングセンター)のポスター、右:モアーズ(ショッピングセンター)のポスター。すべて『わたしのきいち』(小学館)より
早稲田塾のポスター
きいちのぬりえがサントリーの麦茶のラベルになったことも。
 その中で、もっとも長きに渡り、包装紙手さげ袋にきいちの少女絵を用いているのが、江戸駄菓子の販売で知られるまんねん堂です。
 東京・台東区の下谷と浅草に店舗を構えるまんねん堂の社長・鈴木真善さんが、きいちの少女絵を取り入れるようになったのは今から10年以上も前のことでした。
「私は以前から喜一先生の絵が好きでしたが、何より昭和18年生まれの母親が大ファンで、できたら先生の絵を包装紙や紙袋に使わせてもらいたいと思っていました。けれども、うちのような小さな店に先生が許可をくださるはずがない。そう諦めていたんですね……」と鈴木さん。
 しかし、夢のある駄菓子をめざす鈴木さんは、喜一さんの絵が諦めきれません。そこで、ある日、思い切って電話番号案内の「104」に喜一さんの電話番号を問い合わせてみたそうです。
「それしか手段がなかったんですね。ダメでもともとです。するとオペレータから、“蔦谷喜一さんで1件お届けがあります”との返事がかえってくるじゃありませんか。先生の連絡先がこんなにカンタンにわかるなんて……。あのときは、本当にびっくりしました」
浅草の伝法院通りにあるまんねん堂。
左:きいちのきせかえを包装紙にした女の子向けの駄菓子セット「じょうちゃん」は892円。右:片面がぬりえのオリジナルの手さげ袋は、まんねん堂で1000円以上の買い物をした人にプレゼント。

日本文化を伝えるお手伝いを

 けれども、鈴木社長は、喜一さんのお宅に電話をかけて、もっと驚きます。
「いきなり、喜一先生が電話口に出られたんですよ。不意打ちを食らった感じでした。
 とにかく、先生の作品を包装紙などに使わせていただきたいとお願いして、そして、すぐにうちのお菓子を送らせていただきました」
 喜一さんの手元に届いたお菓子は、興味深いものであったに違いありません。江戸駄菓子の素朴な味わいはもちろんのこと、包装紙や箱を組み立てると下町の駄菓子屋や雷門などが完成するようになっていたからです(写真参照)。
まんねん堂の店内には、箱を組み立てると雷門になる楽しいお菓子も並びます。
「次にお電話をしたときに喜一先生が、“あのお菓子、楽しいねぇ”っていってくださったときは、本当に嬉しかったです。 先生が、実際に包装紙や箱を組み立てるなんて思ってもいなかったのですが、組み立ててくれたんですね」
 この言葉は喜一さんの“許可”を意味していました。そこで、鈴木さんは包装紙にきいちのきせかえを、手さげ袋にはきいちのぬりえを選択。 それらは今日も、きいちファンや観光で下町を訪れる人々を喜ばせているそうです。
「まんねん堂のモットーは、お客さまにお菓子を楽しんでもらうことと、それから伝統的な菓子づくりの技を守っていくことだと思っています。 お菓子に対する人々の嗜好が変化したことで、昔ながらの江戸駄菓子を作る職人さんは減るいっぽうですが、 こうしたなか、微力ではありますが、その技術を絶やすことなく守っていくのが、我々の務めだと感じています。
 また、昔の人は包装紙一枚でも大切にしたものです。喜一先生の作品などを包装紙として使うのも、そんな日本の文化というか、 ものを大切にする気持ちを伝えていければと思っているんですよ」
 昭和7年(1932)から、80年ものれんを守ってきたまんねん堂なら、きっとそれも可能でしょう。 そういえば、昭和14年頃、喜一さんも、はかり売りのお菓子屋さんを経営したことがありました。でも、すぐに閉店。 というのも売るお菓子よりオマケの量のほうが多くてつぶれてしまったのです。
 喜一さんはお菓子屋さんには向きませんでしたが、彼の描く少女たちは、この世界のイメージガールとして、これからも愛され続けていくことでしょう。
現在売られているきいちグッズには、こんなカワイイものも。

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