連載第十五回:長谷川義太郎さんが語る“きいちの思い出”

 最新モードの発信地として親しまれ、休日には多くの若者で賑わう街、原宿
 思い思いのおしゃれを楽しむ人々のお目当ては、なんといっても個性豊かなショップの数々ですが、行き交う人たちが世代交代し、流行が目まぐるしく変わっていくように、ショップもまた短期間のうちに、現れては消えていきます。
 こうしたおしゃれ激戦区で、長年、ファッション好きをトリコにし続ける店があります。雑貨店の老舗的存在ともいえる「文化屋雑貨店」。“こだわり派”の人なら、斬新でキッチュなモノを求めて、通ったことがあるのではないでしょうか? 
 あの永遠のアイドル、キョンキョン(小泉今日子さん)は、10代からこの店で小物やアクセサリーを買い求め、ライブで身につけたこともあるそうです。また、世界へと活躍の場を広げるきゃりーぱみゅぱみゅちゃんも、頻繁に店を訪れていました。
 さらに各国の有名デザイナーが買い付けにくることも珍しくなく、イギリスのファッションデザイナー、ポール・スミスのお気に入りは、文化屋オリジナルのティーポットだそうです。
 原宿には、こんなスゴイ雑貨店があったんです。今回は、この店のオーナー、長谷川義太郎(よしたろう)さんにご登場いただきます。
 長谷川さんはデザイナーとしての審美眼で、いち早く蔦谷喜一の魅力を見抜いた人。そして、ぬりえブームが去った後、経済的に困窮していた喜一さんを支え、ブーム再燃へ世の中を動かした仕掛け人ともいえる人なのです。

事務所で開いた自分だけの“きいち展”

 昭和49年(1974)、28歳で文化屋雑貨店を開く以前、長谷川さんはグラフィックデザイナーとして広告制作会社に勤めていました。会社には、のちに著名な装幀家となる菊地信義さんも勤務していて、事務所を訪れる人のなかには大人気のイラストレーター原田治さんの姿もありました。
 菊地さんや原田さんは、ある日、会社の応接室の壁を見て驚きます。なぜなら、壁一面に、きいちのぬりえが展示されていたからです。
 すでにぬりえブームは去り、きいちのぬりえは、駄菓子屋の棚の隅に追いやられていましたが、長谷川さんはそれをまとめ買いすると、応接室の壁いちめんに並べて、ひそかに“きいち展”を楽しんでいたのでした。
「デザイナーの勤務時間は不規則で、夕方から徹夜で働くことが多かった。そのぶん、昼間は時間があくこともあり、そんなときは事務所から近い築地や月島界隈の駄菓子屋をまわってぬりえを選んだり、そうそう、洋品店で腹掛けなんかを買ってきたりしたこともありましたね。
 で、そういうものを展示したり、デスク脇に置いておいたりすると、菊地さんや原田さんが見て、“面白いから、オレにも買ってきてくれ”というんです。
 すると、ますますいろいろなモノを見つける意欲がわいてきます。僕自身が楽しいのはもちろんなんだけど、まわりの人たちをもっと楽しませたいと思うわけね」
 自分の感覚で選んだモノで、誰かを楽しませる――のちの文化屋雑貨店の成功を思わせるようなエピソードです。
「きいちのほかにも、いろいろな人のぬりえを集めましたが、結論としては、“きいちがいちばん”ということになった。線がきれいで、そこはかとなく漂う色気を感じたからです」

喜一にビキニ姿まで描かせた男

「喜一さんを捜してみてくれないかな」
 ある日、長谷川さんにこういったのは、きいちのぬりえに興味をもった菊地さんでした。
「もしお元気だったら、僕も喜一さんに会いたいと思っていましたから、蔵前の問屋街を聞いてまわりました。でも、最初は手がかりさえつかめません。
 喜一さんが、ぬりえの仕事から手を引いていたこともありますが、僕が何者かわからないので、警戒して教えてくれなかった人もいると思います。けれども、そのなかに消息を知っている人がいて……」
 長谷川さんが、埼玉県・上福岡市の古い借家を訪ねたとき、喜一さんはメニエール病に悩んでいました。体調不良のなか描いていたのは、ある会社から依頼された社長の肖像画。老人の表情を写し取ったその肖像画は、ぬりえのほのぼのとしたタッチとは、似ても似つかぬものでした。
「喜一さんは、“もう、ぬりえが流行った時代のことは忘れた”といいましたが、僕は、あの世界をもう一度呼び戻したいと思いました。
 たしか菊地さんは喜一作品を広告に起用し、僕も、広告や雑誌に取り上げられるように動きました。そして当時の人気雑誌『anan』『ビックリハウス』などに、彼の絵が掲載されるようになったのです」
 ほぼ同時期、長谷川さんは広告制作会社を辞めると、文化屋雑貨店をオープンさせます。その店先にもぬりえを並べ、“きいち展”を開催。すると、より多くの人が関心を示し、日本各地で「きいちのぬりえ展」なども開催されました。
「喜一さんは次第に元気を取り戻していきましたが、これだけでは経済的安定は得られない。そこで、月ぎめで契約金を払って、雑貨に用いる絵を描いてもらうことにしたんです。
 毎月、写真や資料を渡して依頼するのですが、思い起こすと、いろんな注文をしましたね。独特の三頭身の少女絵のほか、スポーツする男女、ときにはビキニ姿の女性やへびと戯れる少女などもお願いしましたから、喜一さんは戸惑っていたんじゃないかな(笑)。
 心配して、手紙をくれたこともありました。“使えなかったら、改めて描き直します”と。でも、もし使えないとしたら、それは僕の依頼ミスですから、喜一さんに直しをお願いしたことは一度もありませんよ」
長谷川さんの注文で描かれた喜一作品の数々。ぬりえやきせかえとは異なる描写に注目!

“売れるモノ”より“売りたいモノ”を

 文化屋雑貨店には、そのときの絵をもとに作られたグッズが現在も並んでいます。長谷川さんが、なぜ“新作”にこだわって絵を依頼したのか――。それには喜一さんの生活を安定させるという目的のほかに、もうひとつ理由がありました。
「喜一さんの絵は魅力的ですが、過去に流行ったものをそのまま使うのはどうかと思ったのです。うちで売るには、絵の魅力にプラスして、時代を感じさせる要素が必要ではないかと……」
 ここに文化屋雑貨店が、原宿という特殊な場所で支持され続ける理由があるのかもしれません。可愛さ懐かしさがウリの喜一さんの絵が、長谷川さんのフィルターを通すと、新感覚の雑貨に生まれ変わるのです。
 文化屋雑貨店を取材したこの日も、きいちのポーチを嬉しそうに買い求める10代の女の子を見かけました。彼女にとってそれは懐かしいものではなく、「今、ほしいモノ」「今、面白いと感じられるモノ」なんですね。
「誰もが売れるモノを作ろうとしている。でも、何が売れるのかわかったら、それこそ、みんな大金持ちですよね。そんなことは誰にもわからない……。
 だから、僕はいつも売りたいモノを仕入れたり、作ったりして店に並べるようにしています。経済優先で、売れ筋を追究することも必要ですが、売れるモノが、必ずしも良いモノで美しいとは限らない。そこに気づいてほしい。
 良くないとわかっていても、売れるから売る――これだけに終始したら、日本の文化は後退し、ダメになってしまうと思うのです」
 そして今後の抱負について、こうも語ってくれました。
「これからも、そうは儲からないでしょうね。ずっと低空飛行のままでいく。低空飛行が厳しくもあり、楽しくもあるんですよ(笑)」
 長谷川さんがセレクトした売りたいモノのなかには、きいちグッズも含まれ、最近、増産傾向にあるとか……。この“売りたい”との思いに支えられ、きいちの世界は愛され続けていくことでしょう。
ポーチ、ブローチ、バインダー、軍手、トートバッグ、イス、クッションなど、たくさんのきいちグッズが並ぶ。一部はインターネットでも購入できる。
1946年、東京生まれ。 大学卒業後、グラフックデザイナーの経験を経て、1974年、渋谷ファイヤー通りに「文化屋雑貨店」をオープンさせる。 その後、原宿キャットストリートに移転し、現在に至る。原宿本店のほか、香港に直営店、大阪に取扱店がある。
文化屋雑貨店