連載第九回:ひとり娘が語る“父・きいち”

“きいちの子ども”が通う

 蔦谷家に待望の女の子が誕生したのは、昭和23年(1948)、喜一さんが34歳のことでした。喜一さんの場合、7歳年下のまささんとお見合い結婚したのが30歳。当時としてはかなりの晩婚でしたから、子どもを授かるのも人より遅かったわけですが、そのぶん、つねに我が子に寄り添い、並々ならぬ愛情を注いで育てました。
 美絵子さんによれば、喜一さんは“いつも一緒で、望むことはなんでもしてくれるやさしい父”。この父親は、日々女の子らしく成長する娘にぬりえの少女たちのイメージを重ねて、衣服などの身につけるものにこだわり、また教育熱心でもありました。
美恵子さんが育った足立区梅島の家には、10畳の日舞の稽古場があった。
 日本の伝統文化を知ってほしいと、娘が3歳になるとさっそく日本舞踊を習わせます。そのほか、華道、茶道、お琴、長唄や三味線などの師匠を自宅に招いては、稽古をつけさせました。
「私に習わせたいと同時に、自分でもやってみたかったんだと思います。お稽古の日は、父も一緒に習いました。ことに日舞に関しては熱心で、40歳で名取になったほどです」と美絵子さん。発表会の際には、和裁の先生だったまささんが着物を縫い、喜一さんがそれにアップリケなどの飾りを考案するなど、衣装制作にも熱心でした。
「大きな発表会の場合は貸衣装を利用するのですが、小規模な会の場合は母の手づくり。母は私の衣装だけでなくグループ全体の衣装を担当しますから、5〜6枚は同じものを縫わなければならない。忙しい仕事の合間にそれをこなすのは大変だったと思いますが、父も母もそれは楽しそうでした。とくに父は、まるでスタッフのように、あれこれ準備に追われていました」
昭和26年頃。親子3人、いつも一緒だった。
 また、小学校の運動会ともなると、学校には大量の「きいちのぬりえ」が寄付されました。
「ベビーブームだったので、おそらく全校生徒に差し上げるというわけにはいかなかったでしょうが、私と同学年の人たちへの参加賞とか、徒競争で勝った記念品とか、おそらくそういうかたちで配られたんだろうと思います」
 少ないお小遣いをやりくりしてぬりえを買っていた子どもたちにとって、それは何よりのプレゼントだったことでしょう。
 そんなわけで、地元では目立つ存在だった美絵子さん。町の人たちは、彼女の姿を見かけると、きまって、こんなふうにささやきました。
「ほら、あれが、ぬりえのきいちの子どもよ」
昭和25年頃。ときどきは写真館にも出かけた。
昭和25年頃。ときどきは写真館にも出かけた。

迷って、デコって、楽しすぎるひと時

 美絵子さんが目立つ存在だったのには、もうひとつ理由がありました。
 それは、つねに愛らしい服装をしていたことです。まるで、ぬりえの世界から抜け出してきたようなファッションは、女の子たちの羨望の的でした。
「叔母が服飾の専門家だったので、私の洋服をデザインして仕立ててくれていたんですね。もちろん、父から“こんなデザインにしてほしい”という注文もあったと思います。その中にはフリルやレースのついたものが多く、友人たちは、そこにロマンを感じたのかもしれませんね」
 モボ(モダンボーイ)といわれるほど、若いときからファッションに気を遣っていた喜一さんは、父兄として毎年付き添った小学校の遠足の際にも、つねにスーツ姿だったと美絵子さんは笑います。
「遠足には似つかわしくないと思うのですが、いつもスーツでしたね。そして必ず父がお弁当を作ってくれるのです。得意だったのはちらし寿司とのり巻きで、遠足のときは、のり巻きが多かったと思います。細巻きを何本も巻いて、それを彩りよく並べるのです。具は、かんぴょう、きゅうり、たまご焼き、でんぶ、かつお節など。
 友人は、当時のことをよく覚えていて、あまりにきれいなお弁当だったので、“そのお弁当は誰が作ったの?”と私に聞いたそうです。私の“おとうさん”との答えがうらやましくもあり、また、父親がこれほどきれいなものを作るなんて信じられなかったそうです」
幼少期の美絵子さんは、ぬりえの少女と同じような服装をしていた。
スーツ姿でキメて。独身時代からおしゃれだった喜一さん。 昭和30年頃の誕生会。誕生日には必ず、喜一さんがちらし寿司を作って祝った。
昭和27年頃、大好きな叔母さん(右)と撮った海辺での一枚。彼女は喜一さんの5歳下の妹で、美絵子さんの“専属デザイナー”。ことあるごとに可愛らしい服を作ってくれた。  ひと一倍美意識の強かった喜一さんは、娘の進学先についても、そのこだわりを優先させました。
「父が若い時分に、憧れた女学生像というのがあって、それが跡見学園の生徒さんだったそうです。三つ編みした髪をカチューシャのように頭のまわりでまとめ、袴姿で楚々と歩く姿に惹かれたのでしょう。で、娘もぜひ跡見学園へということで家庭教師をつけ、小学四年生から中学受験に向けての勉強が始まりました」
 もともと勉強好きだった美絵子さんは、すすんで勉強もし、その間、日舞の稽古などにも休まず励みました。
「母校から跡見学園を受験するのは私が初めてということで、追い込み時には学校の先生も講習会などを開いて応援してくれました。みなさんの協力もあって、希望校に入れたときは嬉しかったのですが、でも、実際に入学してみると優秀な人ばかりで……。芳しくない成績に、さすがの父も“もっとがんばりなさい”といいましたね」
昭和27年頃、大好きな叔母さん(右)と撮った海辺での一枚。彼女は喜一さんの5歳下の妹で、美絵子さんの“専属デザイナー”。ことあるごとに可愛らしい服を作ってくれた。

やや過保護なところもありましたが……

「父には、ちょっと困った面もありました。それは、心配性なところ。
 たとえば、家から10分と離れていない小学校に通うのに、毎日必ずお金を持たせるのです。はっきりとは覚えていませんが、何百円かのお金だったと思います。“何かあったら困るだろうから”との理由からですが、“学校へお金を持ってきてはいけない”というのがルールでした。
 おかげで、私は担任から叱られるハメに。というのも、幾度となく“盗難”にあってしまったからなのです。誰が盗んだのかははっきりしませんでしたが、その頃は生活に困っていた人も多く、担任からすれば、とにかく、“その原因をつくるな”ということなのでしょう。ルールに反して必要のないお金を持参するほうも悪いのですから、注意されても仕方ありません。
 それでも父は、どうしても持っていくようにいいはって、これには本当に困りました」
 心配性というか、過保護なところは、美絵子さんが20歳を過ぎても変わらなかったそうです。
 美絵子さんが跡見学園高等学校を卒業する頃には、ぬりえブームが去り、生活が苦しくなっていたので、彼女は大学進学を諦めました。長年学んだ日舞を生かして、花柳徳兵衛(はなやぎとくべえ)の舞踊学校に入学。そこで3年間学んだ後、花柳徳兵衛の舞踊団に入り、プロの舞踊家としてスタートを切る道を選んだのです。ところが、その初舞台のときに、喜一さんは困ったおとうさんぶりを発揮してしまいます。
「後楽園ホールの夜の部だったと思います。父が観にきてくれていたのですが、私には、後片付けなどがありましたから、一緒に帰ることはできません。それでも父は、間もなく帰ってくると思ったのでしょうね。
 ところが、待てど暮らせど娘は帰ってこない。
 母に訴えてもラチがあかないと思ったのか、とうとう舞踊団に電話を入れて文句をいったそうです。“まだ、娘が帰ってこないけど、どうなっているのか”と。
 その頃、私は仲間とお茶を飲んでいて、そんなこと、まったく知りませんでした。父が私に直接小言をいうことはありませんでしたから、もちろん帰宅後も、父の怒りなど知る由もありません」
 結局、美絵子さんがそれを知ったのは翌日になってから。
 舞踊団関係者が苦笑いしながら、美絵子さんにこう伝えます。
「夕べ、お父さんから電話があってね、“娘が帰ってこない”って、叱られちゃったよ」
昭和27年頃、大好きな叔母さん(右)と撮った海辺での一枚。彼女は喜一さんの5歳下の妹で、美絵子さんの“専属デザイナー”。ことあるごとに可愛らしい服を作ってくれた。
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昭和43年頃。『蓬莱(ほうらい)』では、父と娘が同じ舞台を踏んだ。
 おしゃれでやさしくて、理想的な父親だったともいえる喜一さんにも、こんな、ほほえましいエピソードがありました。美絵子さんの思い出話は、まだまだ尽きませんが、今回はこのへんで。また機会があったら、ご紹介したいと思います。