BOOK PEOPLE × 本の窓
普通の会社員の道を選ばず社会で注目を浴び始めている若者たちは、
どんな風に育ち、いま何を考えているのか?
二十〜三十代で震災を経験し、ゆとり世代前後の彼・彼女らの
本音と向き合い考察する
加藤清司
(株式会社イスラテック代表取締役)
釣  書
  • Photographs:Chisato Hikita
  • 加藤清司(かとう・せいじ)
    昭和55(1980)年11月19日生まれ
    現住所 東京都

    経歴 
    平成11(1999)年3月 県立浜松北高校卒業
    平成12(2000)年4月 静岡理工科大学情報システム学科入学
    平成16(2004)年3月 同大学卒業
    同年4月 地元のインターネット関連企業に就職。約1年後に退職し、その後はゼットングループが名古屋に出店する飲食店で約1年2か月勤務後、退職
    平成18(2006)年1月 約2か月間、イスラエルに旅行
    同年7月 川崎市に本拠を置く半導体商社に契約社員として就職、翌春に退職
    同年夏 個人ブログ「イスラエル・ハイテク・ダイヤリー」を開設。この頃、海外メディアが日本で行なうイベントにスタッフとして参加。これが縁で、11月に電子書籍などを手掛けるソフト制作会社に正社員として就職
    平成21(2009)年 個人ブログを「イスラテック」に改称。活動を本格化
    平成26(2014)年10月 同社を退社。イスラテック社の活動に専心
    平成27(2015)年1月 イスラテックを法人登記し、事務所開設、現在に至る
    年収 会社員時代より少し上
    趣味・特技 テニス、読書
    尊敬する人物 父と母
日本の商機は、イスラエルにあり
 イスラエルと聞いて、「ハイテクの集積地」という印象を持つ方は多くないはず。が、実はイスラエルは、シリコンバレー(米国)、ロンドン(英国)、バンガロール(インド)、上海(中国)などと肩を並べる地域として、知る人ぞ知る存在。アップル、グーグル、インテルなど米国の大手企業が数千人規模で研究開発拠点を置くほか、中国や韓国の企業も盛んに進出している。
 ハイテク集積地で、ベンチャー企業が次々と誕生するというイスラエルの一面を日本に紹介し、新たなビジネスチャンスを切り拓こうとしているのが、現在三十五歳になるイスラテック社の加藤清司である。彼は、自社のウェブサイトを通じて一日二社は誕生すると言われるイスラエルのベンチャー企業、約一万社の情報を日本語で発信するサービスを提供するほか、日本企業との仲介役をしたり、進出する際の支援などを主な業務としている。
「関心を持ったのは大学四年生のとき(二〇〇四年)に、ある勉強会で『コーナーショット』という銃の存在を知ったときからです。この銃は、先端が曲がっていて、正面ではない方向に弾を打つことができる。こうした常識にとらわれないモノ作りをする会社がイスラエルにあることを知って驚き、興味を持ち始めました」
 この体験は加藤の心を捉えた。けれど、彼は一直線にイスラエルに傾注したわけではない。経験を積み重ね、一歩一歩と前に進む。それが、彼らしさと言える。
 加藤は、浜松市(静岡県)にある県立の進学校に通うが、自分の進路を決めあぐね、一年間の浪人生活を経た後、奨学金を得て地元の大学へ進学する。しかし、納得の行く選択ではなかった。そこで一年生のときから活発に就職活動を始める。時代はインターネットが本格的に普及し始めた時期で、この当時企業は学生を見習生(いわゆるインターンシップ)として採用し、能力だけでなく、性格や相性の良さなども吟味して採用活動を行なうようになり始めた。加藤はインターネットや当時流行り始めていたSNSなどを使って人脈を広げ、東京にまで足を延ばして就職の糸口を探す。
 ただ、その頃に上場したサイバーエージェントの藤田晋社長や、「ヤフー! BB」のブランド名でADSL回線を提供し始めたソフトバンクの孫正義社長といった時代の寵児には、あまり関心を持たなかった。
「彼らは劇的に物事を変えようとしていましたが、自分は時間がかかっても関係者と協調しながら仕事をすることが大事と思っていました」
 周りには、右のような経営者を称賛する仲間がいる一方で、加藤のように冷めた目で見る仲間もいた。その気分をうかがわせるのは、彼が影響を受けた古典として挙げる、守屋洋『新釈 菜根譚』(PHP文庫、一九八八年[原著は一九八二年])にあるこんな一節。
〈この人生においては、ムリに功名を求める必要はない。大過なく過ごせること、それが何より巧名なのである。
人と交わるときには、与えた恩恵に見返りを期待してはならない。人の怨みを買わないこと、それが何よりの見返りなのだ〉(菜根譚 前集二十八「処世不必邀功。無過便是功。与人不求感徳。無怨便是徳。」の守谷訳)
『菜根譚』と言えば田中角栄や川上哲治など各界のリーダーたちが座右の書にしたことで知られ、昭和世代には馴染みのある名著のひとつ。若者に似合わず、こうした黴臭い書物に共感を覚えた。時代の歯車が大きく回ろうとしていたこの時期、新しい可能性を感じつつも、自分の居場所が見つからなかった。希望と不安という相容れない気分を抱えて悶々とした時期。高校の授業の記憶が蘇り、孔子でも読んでみようかと軽い気持ちで書店の棚を眺めていたときに出会ったとか。
 いまでも実家には日下公人、竹村健一、長谷川慶太郎、船井幸雄などの実用書が数多くあり、この時期に何かをつかもうとしていた痕跡となっている。
 その本棚を見せてくれた母・ヱミ子さん(六十五歳)は、子どもの頃の加藤のことを次のように話してくれた。
「清司は、六歳上の姉、五歳上の兄がいる三番目の末っ子。で、五歳のときに私が働きに出るようになったんです。清司が小学校に入るときに姉が中学生ですから、家での世話はほとんどを任せていましたね。今のお母さん方とは違い放ったらかし。でも子どもは育つんですよ。そして兄はいつもライバル。兄より良い学校に行きたい、兄のしないことをやると競争心をむき出しでした。子ども同士を競争させる意味でも、兄弟は三人以上がいい。娘には、そう言って三人の孫を産ませました(笑)」
 兄のしないこと。それが読書の習慣だったのか。『新釈 菜根譚』との付き合いは今でも続き、手元に置いておき、ときどき頁を繰る。
「『新釈 菜根譚』に書いてあることは色がなく、ニュートラル。自分の考えがぶれるとき、揺り戻すときにちょうどいいんです。多くの実用書は、一方的に結論を言い切り、押し付けるようなところがあるけれど『新釈 菜根譚』は押し付けたり、言い切らない。印象的なのは、きれい過ぎる水には魚は住まず、汚すぎてはいけないけれど適度な汚れがないと良い魚は住まない(前集七十六)という話で、中庸な感じがしっくりくるんです」
 修養を積みながら自分の進路を探すなかで、前述したイスラエルの技術との出会いがあった。今から振り返れば決定的な出来事ではあったが、加藤はもう少し道草を食う。大学卒業後は地元企業に一年、名古屋で飲食関係の仕事に就く。そして大学時代と同じ壁に当たる。
「社会人になり、知識や経験は増えましたが、自分が将来的に何をやりたいか、明確な答えがない状態は、大学に入ったときと同じでした。違いは、今後の長い人生で無為に仕事をするのは嫌と思うようになったこと。学生時代は呑気でしたから。どうにかしなきゃと考えたとき、イスラエルの技術のことが頭にあったので、あてはなかったのですが、イスラエルに出かけていきました」
個人ブログに経産省から問い合わせ
 このとき、加藤は二十六歳。約二か月間、イスラエル北部にあり、シリア国境から約十キロメートルの町・ナハビアから南下し、同国最大級の商業都市・テルアビブでハイテク企業が出展する「イスラエル・イノベーション・サミット」に立ち寄った。技術に詳しくもなく、独自の人脈もない。おまけに英語も覚束ない一人の日本人の若者が、ハイテク産業の展示会に足を運んでも成果を上げられるわけがない。けれど、得るものはあった。
「航空券込みで五十万円くらいの旅でした。日本語でイスラエルの情報を発信してくれる人に泊めてくれと押しかけたり、現地で日本語教師をしていた高校時代の友人を頼るなど、いろいろなことがありました。日本にいるとイスラエルへの先入観でものを見てしまいがちですが、現地の人に会い、現地の空気を吸って過ごすと、普通に人が暮らしている国であることがわかった。いかがわしいと思うことでも、現地で実際に見に行けば良いことも悪いことも見える。それを実感した経験でした」
 この旅をした年の夏、ウェブサイト「イスラエル・ハイテク・ダイヤリー」を作る。同サイトは、イスラエルのことを日本語で紹介していくもので、いわゆる個人が文章を綴り、投稿していくブログと呼ばれるもの。当初は雑多な情報を扱っていたが、彼の地がスタートアップ、つまり起業大国であることを知ってからは、そうした企業の情報に軸足を置く。そして浜松の実家暮らしとも区切りを付け、二〇〇六年七月に川崎市(神奈川県)にある半導体商社に契約社員として勤めながら、前述のブロクの更新を続けていく。実は、この企業情報をこつこつと集めたことが、現在の仕事の財産となる。
「半導体はハイテクの上流とか、(ある規格や仕様、ビジネスモデルなどの)標準化のキーであることを後から知るのですが、基本的には素人のブログ。でも記事を見た経産省の方や、大手自動車会社の方から“もっと詳しく知りたい”と連絡が入るようになったんです。こうした情報はゼロから調べると、手間もお金もかかるので、非常にコストがかかる。私は、ただ情報を発信していただけですが、受け手からは詳しい専門家に見えたようです」
 その後、バイト経験などを経て、アプリ開発の会社に籍を置く傍らで、企業情報を蓄積する。ブログ名も現在の『イスラテック』(イスラエルとハイテクを組み合わせた造語)と改め、現在では約一万社を網羅するまでのデータベースになる。この二足のわらじの生活は、二〇一四年十月まで続き、その間に生涯の伴侶を得る。
 現在イスラテック社は、二つの売上の柱を持つ。ひとつは、会社と同名のウェブサイトを通じ、加藤が二〇〇六年から蓄積した企業情報を月額制(約二十万円)で提供すること。詳細な企業情報を補ったり、アドバイスをする際には付加料金を得る。もうひとつは、日本の顧客とイスラエルの企業との橋渡し。両者を紹介するコーディネートから始まり、交渉代行などにも及ぶ。
↑2015年に行なわれたイスラエルツアーの様子。イスラエル在住の起業家や投資家たちに、日本企業の担当者が自社の魅力を売り込んでいる。日・イスラエル双方の担当社が顔を合わせて信頼醸成を行なうプログラムのひとつ。
 事業が大きな転機を迎えたのは、二〇一二年四月。起業家への投資を積極的に行なうサムライインキュベート社の榊原健太郎が主宰するイベントに出展した。これがきっかけで同氏がイスラエル進出する際の支援をする。榊原氏は、二〇一四年一月にイスラエルに移住し、同国の企業を日本に紹介したり、投資活動を始める。すると日本でもイスラエルへの興味が集まるようになる。
「イスラエルは、日本と同様に資源が乏しいため、もの作りをして、それを輸出することでGDPを稼いでいる国。現地の人は、自分のオリジナリティを大切にし、常に新しいものを作ろうとする。日本企業は、現地に駐在員を配置するか、研究開発拠点を置いても数人規模。ようやく注目され始めてきたことで、我々が役に立てる場面は、今後増えると思います」
 こうしたことが実現に至ったのは同時期に、現地の永住権を持ち、イスラエル日本商工会議所の理事役員も務める岡田一成氏と知り合ったことが大きかった。彼とは共同で現地事務所を設立。現地に拠点を置くことで、よりビジネスチャンスが広がる。
 二〇一五年一月、安倍首相がイスラエルのネタニヤフ首相と会談し、自由貿易協定(FTA)を視野に入れた経済関係強化で合意。七月には両国の航空当局間の協議が行われ、直行便就航の条件が整った。こうしたことなども追い風となり加藤のビジネス環境も変わりつつある。
 いま加藤には、大学に進学時や就職時にあった言葉に言い表せない悶々とした気持ちは払拭されたという。
「大きな違いはいまは感謝されるようになったこと。いままでは何か詳しい人止まりだったのですが、最近はお礼を言われたり、お金をいただけるので、きちんと価値を提供している実感が持てる。同じことをこつこつとやってきたことに意味があったのだと思います」
 いま両国の交流が増える土壌は出来つつあるものの、従来からの先入観などが、目に見えない障壁になることが少なくない。
 加藤の一心に物事と向き合う姿勢は、噛むほどに味わい深くなる「菜根」に通じるところがあり、さまざまな成功譚や失敗譚を生むのだろう。まだ距離がある日本とイスラエルの架け橋に、こうした人材を、天が与えたのかもしれない。
【イスラテックとは?】
イスラエルのハイテク企業を約1万社登録したデータベースを、会員企業向けに提供。これに付随してコンサルティングや業務支援などを幅広く行なう。イスラエルのハイファ市に現地事務所があり、ヘブライ語と英語が使える日本人を配置する。最近は、イスラエルに研究開発拠点の設置・運用を受託したり、新規事業開発を大手企業などに提案するベンチャー企業と連携して、イスラエルの有望な技術を日本に紹介することなどを準備している。従業員は、3人の取締役のほか、外部協力者が数多くいる。現在の売上は億単位ではない。本社所在地:東京都港区南青山2-2-15 ウィン青山ビル UCF917
http://www.isratech.jp/
  • 本の窓
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「いまどきの若いもん」解体新書 第5回

橋本保
はしもと・たもつ
1967年生まれ、東京都出身。情報誌などでITやモバイル関連の記事を執筆する。機器はもちろんだが、それを使う人々や、トレンドなどの現象を追いかけるのを得意とする。