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BOOK PEOPLE × 本の窓
  • 特別掲載
    野村克也
    「野村の日本プロ野球史」
  • 2017.3
自身の野球人生と、輝かしい伝統を築き上げた日本のプロ野球の歴史を総括する、野村克也の集大成連載。今月は特別に「BOOK PEOPLE」にもアップします。
第21回
永久欠番になりたければ
おれを抜け
▲2016年に現役引退した広島・黒田博樹投手がつけた背番号15は永久欠番に。引退会見で黒田投手は、「話を聞いたときは鳥肌が立った。恐縮する気持ち。携わっていただいた方のお陰。僕個人というよりも、皆さんの背番号かなと。15番を見たときに2016年のリーグ優勝を思い出してくれれば、それで僕は幸せ」と話した。(写真提供:産経新聞社)
 二〇一六年シーズンかぎりで現役を退いた、広島カープの黒田博樹の背番号「15」が永久欠番となることが決定した。広島では“ミスター赤ヘル”こと山本浩二の「8」、“鉄人”衣笠祥雄の「3」に続く三例目。松田元オーナーは、「理由はふたつ。彼の残した成績と優勝したこと。それとお金だけではない価値観をいまの社会に示した。十五年、二十年たっても、日米通算二百三勝した投手というだけではなく、彼の与えた影響などが記憶に残るようにしたかった」と話した。
 永久欠番は各球団が独自に定めるもので、明確な基準はない。記録だけでなく、人気や人格、球団や社会への貢献度などを総合的に考慮して決めるのだと思う。
 記録でいえば、広島には通算二百十三勝をあげ、五度のリーグ優勝に貢献した北別府学や、完全試合一度を含むノーヒットノーラン三回を達成した外木場義郎という、殿堂入りしたピッチャーがいる。彼らをさしおいて黒田の背番号を永久欠番にしたというのはやはり、メジャー球団から年俸二十億円ともいわれるオファーを受けながらも古巣に復帰し、二十五年ぶりのリーグ優勝に貢献した“男気”が評価されたということなのだろう。
 とはいえ──黒田に対しては何のうらみつらみもないものの──このニュースを聞いて、正直、思った。
「永久欠番も安っぽくなったなあ……」
背番号は選手の“第二の顔”
 その理由はあとで述べるとして、まずは背番号が選手にとって意味するところを述べてみたい。
「背番号は選手の“第二の顔”である」
 私はそう考えている。
 いまはどの球団のユニフォームも背番号の上にローマ字で選手名が記されているが、昔はそんなものはなかった。番号だけだった。だから、背番号=選手だった。
 しかも、私が子どもだったころはテレビ中継はまだなく、ラジオだけ。選手の動く姿を見られるのは、映画館で目にするニュース映像くらいだった。だから、新聞や雑誌を見て、選手を顔ではなく背番号で覚えた。「16」といえば川上哲治さん、「10」といえば藤村富美男さんというふうに……。巨人ファンだった私は、授業中に巨人の選手たちを「1番=誰々、2番=誰々……」と、順番にノートに書いていったものだ。
 そんなだから、私自身、背番号には非常に思い入れがあった。プロに入って最初にもらった背番号は「60」だったが、これがじつに嫌だった。
「大きい背番号=下手くそ」
 それが一般的な認識だったからだ。ましてや「60」なんて大きな番号をつけている選手はいなかったから、「いちばん下手くそ」というレッテルを貼られたも同然に思えた。
「60」を最初につけたのは、西鉄監督時代の三原脩さんだと思う。当時、監督は「30」をつけることが多かった(鶴岡一人さんも水原茂さんもそうだった)のだが、三原さんはその倍にしたのだと思う。つまり、「60」といえば監督の背番号と言ってよく、二軍戦で地方に行ったとき、私の背番号を見た観客から、「あいつが監督か」と言われたこともあった(ずいぶん若い監督だ)。
 唯一救いがあるとすれば、テスト生として南海に入団した選手は全員が60番台で、そのなかではいちばん若い番号であるということだった。
「テスト生のなかではおれがいちばんだ」
 そう思って慰めることにした。
 三年目に一軍に上がり、「19」になった。当時、南海には松井淳さんと筒井敬三さんというキャッチャーがいたのだが、パ・リーグに高橋ユニオンズという新しい球団が誕生し、各チームが協力して選手を出すことになった。筒井さんが補強選手のようなかたちで高橋に移籍したので、筒井さんがつけていた「19」が空いた。それを私が譲り受けることになったのである。
 うれしかった。ようやくプロとして認められた気がした。そのことが自信にもなった。
「19といえば野村」
 そう言われるようになってやると決意を新たにしたことをいまでも憶えている(ちなみに「19」の「1」と「9」を足すと「10」になるが、ある占い師に聞いたところでは、「足すと10になる」数字は私のラッキーナンバーであるそうで、ヤクルトの監督になったときに「73」をつけたのはそれが理由だった)。
▲「背番号はプロ野球選手の“第二の顔”」と話す野村がつけていた19番は、永久欠番にはなっていない。1977年南海での最後のシーズン終了後、大阪府豊中市の自宅で。(写真提供:産経新聞社)
日本の永久欠番は
わずか十五人
 テレビの普及によって、いまのファンは選手を「顔」で憶えるので背番号に対する関心は薄れていると思われる。それに伴って選手もそれほどこだわらなくなっているようだ。しかし、先ほど述べたように、かつては背番号=選手名だったから、選手にとって背番号は非常に大きな意味を持っていた(実際、プロのキャッチャーに一桁の背番号が少ないのは、プロテクターの背中のベルトのせいで背番号が見えづらくなることが理由ではないかと私は考えている)。ましてやそれが永久欠番になるということは、スーパースターであることの証。これほど名誉なことはなかった。
 メジャーリーグではじめて永久欠番に指定されたのはヤンキースのルー・ゲーリッグで、一九三九年のことだったそうだが、ゲーリッグは引退セレモニーのスピーチでこう話し、喜びを表している。
「今日、私は自分が地球上でもっとも幸せな男だと思っています」
 ゲーリッグは不治の病とされていた筋萎縮性側索硬化症(ALS、「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれた)を患い、引退を余儀なくされた。ヤンキースは彼の背番号「4」を永久欠番とすることでその功績に報いたのだった(余談だが、背番号制を正式に採用したのは一九二九年のヤンキースからで、打順に応じて割り当てられたという。すなわち三番を打っていたベーブ・ルースが「3」、ゲーリッグは四番だったから「4」だった。「5」はジョー・ディマジオである)。
 日本における永久欠番は、一九四七年に巨人軍が沢村栄治さんの「14」と黒沢俊夫さんの「4」を欠番にしたのを嚆矢とするそうだ(黒沢さんという選手を私は知らなかったのだが、戦時中に四番を打っていた外野手で、一九四七年に急死。千葉茂さんら有志の提案で、沢村さんとともに永久欠番になったという。「4」は「死」に通じて縁起が悪いという考えもあったかもしれない)。巨人はその後、川上さんの「16」、金田正一さんの「34」、長嶋茂雄の「3」、王貞治の「1」を欠番にした。
 巨人と前述した広島以外では、阪神が藤村さんの「10」、村山実の「11」、吉田義男さんの「23」を、中日が西沢道夫さんの「15」と服部受弘さんの「10」を、そして埼玉西武が前身の西鉄で稲尾和久がつけていた「24」を永久欠番にしているが、プロ野球八十年の歴史で、永久欠番の指定を受けたのは──阪神で金本知憲がつけていた「6」やオリックス時代のイチローの「51」のように、その後使用されていない番号はいくつかあるとはいえ──黒田以前にはわずか十四人しかいなかったのである。永久欠番とは、それほど価値があるものなのだ。川上さんの「16」などは、他球団であっても並の選手がおいそれとつけられるものではなかった。
なぜ「19」は
永久欠番ではないのか
 そこで黒田である。黒田の功績にケチをつける気は毛頭ない。しかし、彼の背番号が永久欠番になるのなら、ほかになってしかるべき選手がいると思うのだ。
 その代表がこの私だ。おこがましさを承知で書くが、私の「19」が永久欠番になっていないのはおかしくないか?
 黒田が永久欠番に決まったと知って、プロ野球と関わりたくなくなったほどがっかりした最大の理由はそこにある。私の「19」が永久欠番の候補にすらならなかったのに、どうして黒田程度の成績のピッチャーにその栄誉が与えられるのか……。
 一九五四年に南海に入団し、三年目に一軍に上がってからというもの、私は正捕手の座を守り続けた。四番を打ち、一九六五年には戦後初の三冠王になった。なにより日本プロ野球においてキャッチャーの役割の重要性を認識させたのは私だと自負している。一九七〇年からは乞われて選手兼任の監督になり、一九七三年にはリーグ優勝も果たした。ところが、一九七七年かぎりで解任され、南海を退団することになった。その際、「19」を永久欠番にするなどという話はいっさいなかった。
 それ以上に許せなかったのは、その「19」を南海は一九七九年のドラフト三位で指名した山内孝徳というピッチャーにすぐさま与えたことだ。
「南海にとって、おれの存在はその程度のものだったのか……」
 腹立たしさと寂しさで、やりきれない思いがした。
 人間というものは人の評価で生きている。私が南海で果たしたことに対する評価は、ドラフト三位の新人に対するそれと同じなのだという現実をつきつけられたときの寂しさは、いまも忘れていない。
 電電九州に在籍していた山内は、指名翌年の社会人野球日本選手権に出場してから南海に入団したのだが、当時の南海は、山内新一というエース格が「20」を背負っていたところに、一九八〇年のドラフト一位指名の山内和宏というピッチャーも入団することになった。そこで、和宏に「18」、孝徳に「19」をつけさせ、“山内トリオ”として売り出そうと考えたわけだ。
 とはいえ、いくら球団がそう申し出たとしても、新人が受けるものか? 「19番なんて恐れ多い」と固辞するのがふつうの神経ではないのか? 山内が躊躇なく受けたことも「おまえは安物だ」と言われたようで、ショックだった。いつか山内に会う機会があったら「おれの背番号をよくつけられたな」と怒鳴りつけてやろうと思っているのだが、残念ながらいまだ果たせずにいる。
 もし南海で円満に現役を終えていれば、永久欠番になったのではないかと言われるかもしれない。が、おそらく無理だったと思う。
 というのは、永久欠番も処世術がものをいうからだ。南海というチームは、創設以来、実質的に鶴岡さんが牛耳ってきたといっても過言ではない。その鶴岡さんにどういうわけか私は嫌われた。テスト生の私を抜擢して育て上げたのだから、鶴岡さんにとって私は自慢の種だと思うのだが、次期監督候補に名前があがった時期から疎まれるようになった。やきもちとしか考えられない。処世術がまるでダメな私は、鶴岡さんにゴマをすることができなかった。だから、鶴岡さんがいるかぎり、「19」を永久欠番にするはずがなかったに違いないのだ。
 また、東北楽天の監督を辞任した際、楽天球団が「19」を永久欠番にすることを打診したが私が固辞したという話が流布しているようだが、それは間違いだ。楽天はこう言ったのだ。
「19番を使っていいですか?」
 楽天では欠番にされるような業績は残せなかったので、「どうぞご自由に」と答えた。その結果、私の退団後しばらくは欠番になっていたが、二〇一七年からはドラフト一位ルーキーの藤平尚真というピッチャーがつけることになったと聞いた。
野村を抜いてこそ永久欠番
 私のほかにも、球史に残るような成績をあげながら永久欠番になっていない選手は大勢いる。
 たとえば、三冠王を三度も獲得した落合博満や、歴代二位の三百五十勝をあげた米田哲也、通算千六十五盗塁という空前絶後の記録を残した福本豊がそうだ。川上さんと人気を二分した大下弘さん、稲尾とともに西鉄の黄金時代を築いた中西太さんもなっていないし、南海で私とバッテリーを組み、鶴岡監督のお気に入りだった杉浦忠の「21」も、どういうわけか永久欠番ではない。
 近鉄のエースだった鈴木啓示の「1」は永久欠番に指定されたものの、オリックスと合併して球団が消滅したため、いまはそうではないらしい。事実、後藤光尊というバッターが使用した。おかげで、パ・リーグには現在、稲尾以外に永久欠番はなくなった。
 なかには打診されても固辞した選手もいただろうし、落合のように複数の球団に在籍した選手は欠番にしにくいのかもしれない。しかし、メジャーリーグではハンク・アーロンの「44」は、彼が在籍したブレーブスとブリュワーズの両方で永久欠番になっているし、ノーラン・ライアンはエンジェルス時代の「30」と、アストロズ、レンジャーズでつけていた「34」がそれぞれの球団でやはり欠番に指定されている。そう考えれば落合の「6」は、ロッテ、中日、巨人が欠番にしてもおかしくない。私の「19」だってそれだけの価値はあると思うが、移籍したロッテからも西武からもそんな話はこれっぽっちもなかった。南海の経営を引き継いだ福岡ソフトバンクからもいまだにない。
 永久欠番は、その球団の選手に対する価値観を象徴するものといっていい。要するに、日本のプロ野球界は総じて選手に対する敬意に欠けるのだ。ヤンキースでは、二〇一四年に引退したデレク・ジーターがつけていた「2」を欠番にしたことで、「1」から「10」までの番号はすべて永久欠番になったという。さすがにそれはどうかと思わないではないが、アメリカでは先人の偉業を大切にし、敬意を表す文化が確立しているわけだ(初の黒人メジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンの「42」は、在籍したドジャースのみならず、全球団共通の永久欠番となった)。
 選手を顕彰するという意味では、黒田が永久欠番になったという事実は喜ばしいと言えるのだが、いかんせん、永久欠番の価値も下がってしまった。
 そもそもメジャーのオファーを蹴って広島のために戻ったことが評価されるなら、アメリカから古巣に復帰した選手はすべて永久欠番になってしかるべきだし、阪神から広島に戻って優勝の原動力となった新井貴浩だって候補になりうるだろう。なにより、私をはじめ、これまで名前をあげてきた選手たちの業績は、黒田以下ということになってしまうではないか。
 だからこそ、私は声を大にして言いたいのだ。
「永久欠番にするのは、私以上の成績を残した選手だけにせよ! 永久欠番になりたければ、おれを抜け!」
協力:(株)KDNスポーツジャパン
  • 『野村の遺言』
    野村克也/著
    定価:本体1,400円+税
    小学館・刊 四六判 256ページ
    ISBN 978-4-09-388513-3
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