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BOOK PEOPLE × 本の窓
  • 「いまどきの若いもん」
    解体新書
    第14回
  • 2017.3
橋本保/取材・文
一軒家の一階部分を改築して作った質素な工房。柱時計が時を刻み、正時ごとに音が鳴る。時計旋盤と呼ぶ工作機械で、鉄棒を髪の毛くらいの太さ(100分の8mm)にまで削り上げる部品を作ったり、時計の組み立てなどを行なう。お客を迎えるサロンも兼ねていて、ここで打ち合わせを重ねていく。
菊野昌宏(34歳)
1983年2月8日生まれ
独立時計師
自衛隊員として、銃の整備をしていた青年は、機械時計をすべて一人で作る道に進む。大量生産、大量消費社会における、哲学的なものの価値とは何なのか?
Photographs:Maki Matsuda
一年に一本だけ、
五感を駆使して時計を作る、
日本初の独立時計師の
もの作り哲学とは?
 動力にぜんまいを用いて針を動かし、時刻を表示する機械時計。これを企業に所属せず、個人で作り上げる職人を独立時計師と呼ぶ。スイスには国際的な独立時計師協会があり、その正会員は約三十四人しかいない。
 この独立時計師協会の正会員として、日本人初、それも三十歳の若さで入会を認められた若者がいる。菊野昌宏である。彼が作る最新作『和時計改』は、一本千八百万円。一年に一本しか受注せず、これだけで時計に使う原材料などの仕入れや研究開発、そして奥さんとの生活を賄う。まるで江戸時代の職人のようである。
 小さい頃からもの作りへの関心が強かった菊野が独立時計師になろうと思った直接のきっかけは、ある雑誌の記事で、その存在を知った衝撃からだった。
「子どものときの工作は、構想して、図面を作って、材料を集めて、組み立てて、完成まで自分で全部できますよね。でも社会人になり仕事となると、担当するのは一部分で、全体が見渡せなくなる。高校のときにそう考えたら就職先を決められなくなり、とりあえず、お金を貯めながら心身を鍛えようと陸上自衛隊に入りました。
 自衛隊では銃や車両などを整備する武器科に所属しました。しかし、この仕事はあまり職人技が必要とされてはいけません。いざとなったとき、職人技に左右されると、あいつがいないと銃が直せないということになり、困るからです。 
 入隊後、先輩が機械時計を使っていたのをきっかけに時計に興味を持ち始め、二〇〇三年に時計の専門誌で独立時計師のことを知って驚いたんです、機械時計は一人で全部作れるのかと。時計は工業製品なので、工場で作るものと思っていたのですが、独立時計師は個人でアーティストのように活動している。その記事で知ったのがフィリップ・デュフォーさん。彼の作る時計の元の部品、磨いた部品、仕上げた部品の写真を見て、きれいだなぁ、って夢中になりました。そして二〇〇五年春に陸上自衛隊を退官し、専門学校に通うために上京しました」
 こうして菊野は専門学校に入るが、そこのカリキュラムは時計修理師のもので、独立時計師への道が備えられているわけではない。最終学年になり、どうしようかと考えていたときに、学校で働くことを提案される。時計のケースを作ったり、部品を改造するなど、どうにかして自分一人で時計が作れないかと苦心する様子を見ていた教師たちが、学校側に働きかけてくれたのである。
 菊野はこの頃、幕末の機械時計「万年時計」を特集したテレビ番組を見る。その主役は、佐賀藩で大砲や蒸気船の開発に貢献し、明治期には芝浦製作所(東芝の前身)を創業した田中久重。田中が作った「万年時計」は国の重要文化財にも指定され、現在は国立科学博物館(東京・上野)に展示されている。
「当時は一枚の歯車を作るのに、一つ一つの歯をやすりで削って作っていたことを知りました。コンピューターもない時代に手作業で時計を作ることができたなら、自分にもできるかもしれないと希望がわいてきた。環境が整っていないことは言い訳になりませんから」
 そして二か月後には自分で手がけた最初の時計が完成する。これを見た学校は、彼を時計制作を教える講師として採用し直す。講師となって二年後の二〇一〇年には、「万年時計」を腕時計化した『自動割駒式和時計』が出来上がる。これを見たフィリップ・デュフォー氏の知人から本人を紹介され、同年の秋にスイスの工房を訪ねる。
「限られた環境で、よくやっているね、と言われたのが印象的でした。スイスで時計を作っている環境に比べると限定的かつ原始的な機械で作っていること、そしてパーツまで手作りしているのかと驚かれました。デュフォーさんたちのような設備は使っていませんし、実は独立時計師のなかでもパーツまで手作りする人は少数派なんです。このときに、バーゼルワールドに興味ある? と聞かれたので、ぜひお願いしますと答えました」
 バーゼルワールドは、毎年春にスイスのバーゼルで開かれる世界最大の宝飾品と時計の見本市。菊野はデュフォー氏の後押しで、二〇一一年に独立時計師協会のブースに初出展する。二十八歳で時計師として出展することは、日本人初の快挙だった。さらに翌年のバーゼルワールドには「トゥールビヨン 二〇一二」を発表。これが時計愛好家の日本人に売れた。すでに教職から離れ、時計師としての道を歩み始めていた菊野が、プロフェッショナルとして認められたのである。
 その後、二〇一二年から一年三か月かけて作った『ORIZURU』で独立時計師協会の正会員(これも日本人初)に認められ、名実ともに独立時計師となった菊野は、二〇一三年から一本百五十万円と比較的安価な『MOKUME』を販売。そして二〇一五年から最新作の『和時計改』を手がけ始め、その二本目を今夏に納品する。
お金で表される価値は、
本当の価値ではない
命を取られる
わけではないから、
とことんやる
 前述のとおり、菊野の生活は作った時計が売れるか否か真剣勝負。ただ、過去には一年以上かけて作った時計に満足できず、値段がつけられなかったこともある。
「あのときは結婚直後だったのですが、結構やばかった。しばらくは、奥さんの貯金を取り崩すほどで、“もっと順調に行くのかと思った”と言われましたね(笑)。ただ、どんなに貧乏でも命までは取られない。いずれにしても妻には感謝しています」
 一年かけて時計を作っても、失敗作になるかもしれないし、売れるかどうかも保証はない。けれど菊野は、そうした不安定に見える生活を楽しんでいるよう。そうした気構えは、陸上自衛隊での経験が影響している。
「集団生活と、厳しい訓練をしていくうちに、部隊の隊員は家族のようになる。その隊員仲間を守るために自分が犠牲になることもあるという感覚が身につきました。
 そして死ぬときは理不尽なんです。爆弾が飛んで来てそれが弾ければ、優秀な人だろうが、おじいさんだろうが、若かろうが関係ない。それは戦場や災害地でなく、普段の生活でも起こりうる。実は、死は身近にあるんです。そう考えたら、後悔せず納得いくまでやり切ろう、やっていれば何とかなるだろうと思うようになりました」
 世間では一本千八百万円の価格に興味がいきがちだが、それは表面的で、事の本質を捉えていないと菊野は言う。
「値段は、僕が生きていくために必要なところから結果的に出てきたもの。それは、時計そのものの本質ではない。哲学的な価値こそが本質で、(購入された方は)そこにお金を払っていると言ってくれています」
 では、その哲学的な価値とは具体的にはどんなものか。
「ものを作ることは基本的に大変なことです。それも分業をせずに一人でやろうとすれば、なおさらです。
 スイスでは産業革命の遙か前から分業が始まり、いまでも分業で作るのが主流。最近はコンピューター制御の機械も導入されて、合理化や効率化は進んでいます。
 文献などの記録が少ないので一概にはいえませんが、日本の和時計は需給バランスの都合もあって職人が一人で作り上げていたようです。それは誇れること。
 自分のなかでは、人間の五感を使って行なうものは手作業と思うんです。動力に電気モーターを使った旋盤(金属を削り上げる工作機械の一種)でも、目視で切り込み量を決め、音を聞きながら削れ具合を知るようなやり方は手作業のうち。一人の人間が五感を駆使して一つの時計を作り上げているということが重要なのです」
 菊野の興味は、時計を入り口にして、幅広い分野に及ぶ。時計産業の発展を通じて産業革命について考えたり、欧米で発展した時計と江戸時代の和時計を通じて職人文化について思いを馳せるといった具合にだ。また「時間とは何か」という哲学的命題にも関心はおよぶ。
「時計は、物理的に流れている時間を瞬間的に示しているに過ぎず、これは時間そのものではない。たとえば人間とハエとでは感じる時間が違うし、同じ人間でも大人と子どもでも時間の感じ方は違う。あと僕が作っている和時計は、物理的に流れる時間を示すものですが、不定時法です。この時法は、太陽が出ている時間を六等分して一刻とするので、現代の私たちが使っている定時法に照らすと、同じ一刻でも毎日時間が違う。太陽の出る時間は毎日変わるので当たり前ですよね。あと場所によっても一刻は変わる。でも農業が中心の江戸時代は、日の出と日の入りを基準にする不定時法のほうが便利だった。時間って不思議です」
↑『和時計改 暁鐘』。この時計は、江戸時代の時法である不定時法で時を刻む。不定時法は夜明けの始まりと日暮れの終わりを基準として昼夜を分け、それぞれを六等分した一つを一刻と呼ぶ。そのため一日のうちでも昼と夜では一刻の長さが異なり、毎日一刻の長さが変わるほか、場所によっても変化する。
 そうしたことは豊富な読書経験によって養われた。印象的だったのは、彼の書棚に『モモ』(作者はミヒャエル・エンデ)があったこと。同書は、自分の時間を預けると、利子が利子を生み、人生でたくさん時間が使えるようになると誘う「時間貯蓄銀行」の灰色の男たちの策略に嵌まり、登場人物たちが時間を節約してどんどん預けるけれど、忙しくなるばかりで人間らしさを失った人たちを主人公のモモが、灰色の男たちは「時間泥棒」だと喝破し、人々を助ける物語。『モモ』は、ここ十年間で一気に普及したスマホは、“いつでも、どこでも〜ができる”“簡単、便利に〜が使える”などの謳い文句に誘われて使い始めたものの、結局は忙しくする道具で、従来大切にしてきた人間らしい生活を奪っていると警鐘を鳴らしているとも読める。いまは機械時計はおろかスマホを腕時計代わりに使う人は少なくない。そうした状況は時間泥棒に時間を奪われているのと同じかもしれない。
「僕は、(時間泥棒とは)正反対のことをしている。購入する方も、そういうことを楽しんでくれている。出来上がるまでを待つ時間、好みに合うように作り手と対話する時間、そして出来上がった時計と過ごしていく時間を買っていると言ってくれています。こうしたものは貨幣に換算できない心が決める価値で、高いか安いかは一概には決まらない。同じ一万円でも、収入の多い少ないで、その価値は違う。貨幣の価値って万人に通用するように思われるのですが、実は違いますからね。
 今の時代は、ほとんどのものが誰が作っていて、どんな風に作られているかがわからない。それは価格でしか判断できない。だから貨幣の価値に目が向くのでしょう。
 たとえば包丁ならば昔は鍛冶屋さんが打ってくれて、その人の顔が見えているからものを大切にするという感覚も生まれる。また手作りでやる限り、作れる数には限界があるから、どんなに腕のいい鍛冶屋でも市場を席巻することは絶対に無理。一人勝ちはできません」
 本場の独立時計師も驚く手法で、江戸時代の日本で使われていた和時計を蘇らせている菊野昌宏。彼が時計作りを通じて発信している問いは、現代で主流のもの作りへのあり方や、江戸時代の不定時法を基準にした生活文化の豊かさの再発見、そして時間はある日突然、理不尽に止まってしまうことがあるけれど、あなたはどう使いますか、ということかもしれない。
きくの・まさひろ
  • 北海道深川市生まれ。地元の高校卒業後、陸上自衛隊に入隊。退官後、ヒコ・みづのジュエリーカレッジに入学。卒業後に同校の講師をしながら独学で時計作りを始める。2013年(30歳)に日本人初の独立時計師協会の正会員となり、現在に至る。ぜんまい以外の部品をすべて手作業で作る徹底した姿勢などが国内外から高く評価されている。
    ●ウェブサイト
    https://www.masahirokikuno.jp/