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BOOK PEOPLE × 本の窓
  • 自著を語る2
    岩井秀一郎
    『多田駿伝
    「日中和平」を模索し続けた
    陸軍大将の無念
  • 2017.5
「多田駿」とは何者か
 この人物の名を、果たしてどれほどの人が知っているだろうか。元帝国陸軍大将で、一時は参謀次長という陸軍を代表する地位まで昇った人物ではあるが、研究者を除けばよほどの歴史好きでないと知らないのではないだろうか。
 多田と仲が良かった「石原莞爾」なら御存じの方も多いだろう。あの「満州事変」の首謀者として、あるいは「世界最終戦論」の提唱者として、その名は昭和史に燦然と輝いている。没後から現在まで石原の伝記は数多く書かれ、いまでも書店で「日本近現代史」のコーナーに行けば、関連書籍の数冊は容易に発見できるだろう。その石原と比べると、多田の知名度はどうしても見劣りしてしまう。
 私も、当初多田のことはほとんど知らなかった。にもかかわらず、ある一つの出来事で、「多田駿」の名は頭の中に深く刻まれていた。
 その出来事こそ、本書のハイライトともなる昭和十三年一月十五日の大本営政府連絡会議だった。この会議では日本と戦争状態にあった中華民国との和平交渉を継続するのか、打ち切るのかが議論された。打ち切り派は近衛文麿総理大臣、米内光政海軍大臣、杉山元陸軍大臣、廣田弘毅外務大臣など、政府首脳部のほぼすべて。対して、積極的に交渉継続を訴えたのはたった一人、多田駿参謀次長のみだった。
 この会議での多田が印象に残っていたのには、私の持っていた「陸軍に関するイメージ」が関係している。これまでは「帝国陸軍」特に「参謀本部」と言えば「強硬派」「政府を引きずった」との印象が強く、常に威勢の良いことを叫び、日本を対米戦争に向かわせたとばかり思い込んでいた。一般的に、参謀本部についてこうした印象を持つ人はかなり多いのではないだろうか。
 もちろん、陸軍にそういった部分があったことは確かだし、大東亜(太平洋)戦争へ至る道でいくつもの重要な役割を果たしたのも事実ではある。
 しかし、その対米戦争へ向かう重要な分岐点であった同連絡会議において、ひとり和平のために奮闘したのは、他ならぬ陸軍の、しかも強硬派であるはずの参謀本部の次長だった。この印象は強烈だった。
菊の御紋の付いた馬車で東京駅を後にする多田駿(左 明治15〈1882〉年生−昭和23〈1948〉年没/宮城県仙台市出身)。天皇への奏上に向かうところ(昭和16年7月)
 この連絡会議で特に印象に残るのは、海相米内光政との対立だ。この人も戦後の知名度では多田をはるかに上回り、昭和の海軍軍人としては山本五十六元帥に次ぐ評価を得ている人物といえるだろう。その米内が、
「参謀本部は政府を信用しないのか(交渉打ち切りに賛同しないのか)」「それならば内閣は総辞職する他はない」
と強く迫り、対して多田は、
「明治天皇は朕に辞職は無いとおっしゃった。この大事な時に辞職などと言うとは何ごとか」
 と反論し、ついには涙を流した──。なぜ、参謀次長は泣かなければならなかったのか。そしてなぜ、多田の願いは叶わなかったのか。約五年前、思い立って私が「小学館ノンフィクション大賞」に応募しようと考えたとき、真っ先に浮かんだのが「多田駿」の名前だった。多田の涙の理由と、参謀本部の戦争反対が歴史の波間に消えた理由、そして多田駿とは何者であったのか。それを、出来る限り調べてみようと思った。
 残念ながら最初の原稿は最終選考には残らなかったが、編集者の目にとまり、今回の出版となった。そして今年は、盧溝橋事件から八十年にあたる。盧溝橋事件こそ、多田が心血を注いで阻止しようとした日中戦争の、そもそもの発端に他ならない。この節目の年に本書を出版できたのは、やはり何かの縁である、と思わずにはいられない。
  • 『多田駿伝
    「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念
    岩井秀一郎/著
    定価:本体1,700円+税
    小学館・刊 四六判 322ページ
    ISBN 978-4-09-379876-1
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