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BOOK PEOPLE × 本の窓
  • 「いまどきの若いもん」
    解体新書
    第16回
  • 2017.6
橋本保/取材・文
樂家の玄関にかかる白暖簾の前で。「樂焼 御ちゃわん屋」の書は、本阿弥光悦が2代・常慶に贈った。この暖簾は当主交代のたびに掛け替えるが、14代が急逝したため、当代の襲名からだいぶ後に新しくした。白さが映えているのは、そのため。決して暖簾にあぐらをかいているわけではない。
樂 篤人(35歳)
1981年10月29日生まれ
陶芸家(樂家・次代)
十五代当主であり、偉大な作家でもある樂吉左衛門を父に持ち、運命に抗ったり、友人と殴り合いもした。それでも次代への道を歩み始めた秘話、そして現代における茶碗作りに、どんな可能性があるのかを語った。
Photographs:Chisato Hikita
一子相伝で、千利休の
「侘び茶」の理想を
樂茶碗作りを通して
伝えてきた樂家。
その次代当主に映っている
現代社会とは?
 千利休(一五二二〜九一年)は、自分が目指す「侘び茶」の精神を表すための道具を、専門の職人に作らせることで、その世界を大成した。唐物や高麗ものの茶碗が最高とされていた時代に陶工・長次郎(?〜一五八九年)に作らせた茶碗、いわゆる樂茶碗は、利休の「侘び茶」が具現化されたことの象徴とされている。
 色彩や模様もなく、形も媚びない黒もしくは赤単色の長次郎の茶碗は、手で土を包み、立ち上がらせて作る手捏ね、その後でヘラで土を削ぎ落とすヘラ削りのふたつの工程で作られ、その技法と精神は、一子相伝で現在に至る約四百五十年間脈々と伝えられている。
 樂家では、その時代に当主を務める当代が「樂吉左衛門」を名乗る。いまの当代である十五代は樂茶碗が、茶の湯の道具であると同時に、日本文化を代表する芸術品であることを再認識させた作家として、海外からも評価が高い。その十五代の作品を、初代・長次郎にまで遡って紹介した「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」(京都国立近代美術館、東京国立近代美術館で開催)では、長男で次代でもある樂篤人の作品も展示された。展覧会に先立って行なわれた記者会見で樂吉左衛門は、「あの人(篤人)は二十九歳くらいで、(樂家の次代として家に)戻りました。僕より二年遅れて。もうあと数年したら、バトンタッチしようかなと思っています。今回は未来に向かって(樂茶碗作りが)継承される、そういう象徴的な意味も含めて、次代の作品も展示した」と世代交代が近いことを明かした。
 安土桃山時代から綿々と続く職家(御家元である表千家、裏千家、武者小路千家に出入り職人の家)に生まれ、世界的評価もある父の後を継ぐ篤人は、家業、血筋、伝統など、現代に暮らすわれわれからは縁遠くなりつつあるものに囲まれて育った。ちなみに樂茶碗は、豊臣秀吉(一五三七〜九八年)が建てた「聚楽第」近くに楽家があったこと、また長次郎の樂茶碗が、聚楽第そばに聚楽屋敷を構えた千利休の手を経て世に出されたことなどから「聚樂焼き茶碗」と呼ばれ、やがて「樂焼」「樂茶碗」と称される。そして現在も、その界隈(京都市上京区油小路)に窯場があり、同じ敷地内に住まいを構え、職住一体の生活のなかから生み出される。
「仕事場が家なので、父が仕事をしている姿は見ますし、父中心に家の中が回る。父や母は『あなたが長男、家を継いで十六代よ』とは言わないのですが、祖母や周りの大人からはそう言われて育ちました。なので、少なからず自分が次を継ぐ運命なんだな、家を自分が背負うんだなとは思っていながらも、呪縛のような、それとの葛藤はありました。自分でも窮屈さはあったし、友人などが何げにグサッという一言を放つんです、『お前はレールがあって、楽やな』と。
 父の仕事への向き合い方は本当にストイックです。一切の妥協を許さず努力し、苦しかろうが、自分の信念を曲げずに突き進んでいる感じがします。
 いまでこそお茶はお金持ちの人が、余った時間に、道楽でやってはるんだなと捉えられていますが、(たとえば幕末から明治初期や、太平洋戦争後などは)茶道界も苦汁を嘗めたり、広がりもなく、しんどいこともあった。うちの家も、代が継げなくて空白のときもありましたし、おじいさん(十四代の覚入、一九一八〜八〇年)が急にバタッと倒れて準備が出来ていなかったので父は(税務署に)一度廃業届けを出した。
 樂という看板やブランドのようなものにあぐらをかいているのではなく、仕事に真摯に向き合う父の姿を見ているので、外から思うのとは違うんです」
 ある友だちとは、こんなこともあった。
「『お前は、楽でいいな』と自分を理解してくれているはずの友だちからも言われると、『あっ、お前も、そう見てるのか』と悔しかったり、残念だったり……。それは、お前の弱さだろと言い返して喧嘩になったこともある。
 ある酒の席では、ばぁ〜んと殴られたこともある。お店で何人かで飲んでいたので『ここじゃあれやから、前へ出るぞ』と店を出て、『お前、友だちなのに友だちを殴るってどういうことかわかっているのか、殴りたいんやったら殴れ』と言うと、もう一発、さらに三発目を殴られた。『殴りたいんやったら殴れ』と言ったけれどさすがに痛すぎて、このままやったら歯が折れそうと思い咄嗟に殴り返し、こかして(横にして)押さえつけた。そしたら他の友だちが助けてくれたので、あと任せた。
 彼は大学受験のために通っていた画塾時代から友だちで、いま思い返してみると自分の芯の部分をわかってくれていると、少し甘えがあったのかもしれません。アホとかバカとか言われても怒りは湧いてこないんですが、歴代がしてきた作品と向き合ってきたことも、『(お前は)結局ブランドだけで、そんなものは極端に言えばゴミみたいなものだ』と言われたように思えたのでしょう。
 樂焼のことを知らない人や、僕自身のことを知らない人から言われるのは慣れているし、理解できる。むしろそういう人に魅力が伝えられるかが自分に問われている。
 世間では一子相伝というと、秘伝書などがあり、それを親から子へ代々受け継ぐような印象を持っていますが、実はそうしたものは一切ない。陶土だけは受け継ぎますが、技法や釉薬(陶磁器の意匠に決定的な役割をするガラス質の溶液)の調合などは、父が何をどう使っているか僕は知らない。よく『秘伝書がなくて、どうやって伝わるんですか?』と聞かれるんですが、樂家、樂茶碗の一子相伝は、言葉ではなく、その精神性をどう伝えていくかというところが大きいのです」
同じ方法で、同じものを
作り続けるのではなく、
初代を受け継ぎつつも、
その時代と向き合う
 一子相伝は、親から子、子から孫へと、技法やノウハウが、秘伝書や口伝などで受け継がれることと思われがちだが、樂家では、具体的なことを教えると作品作りの制約になると考え、教えないことを継承してきた。
「お茶碗という大きな枠はありますが、利休さんと初代の長次郎がいて、いままでにないお茶碗を利休さんが長次郎に生み出させた。その長次郎を受け継いだ二代・常慶(?〜一六三五年)、三代・道入(一五九九〜一六五六年)と、それぞれの当代が、長次郎を真似ずに、時代と向き合って、新しいものを生み出した。なかでも道入がターニングポイントで、三代目の彼が初代と同じものを作っていたら、たぶんその後は初代のようなものを作ったか、途中で飽きられ、家が終わっていたと思う」
 道入は「ノンコウ」の通称でも知られ、尾形光琳など琳派の源流ともいわれる芸術活動をした本阿弥光悦(一五五八〜一六三七年)、そして利休から茶の湯の精神を受け継ぐ御家元らと関わり、その時代と呼吸することで、樂茶碗の芸術性を高めた。その特徴は、〈長次郎茶碗がカセた黒一色なのに対し、道入茶碗は光沢があり、装飾が施されている〉(樂吉左衛門、樂篤人の共著『定本 樂歴代』)ことで、現代的な表現をするならばアヴァンギャルド(前衛)な作家だったのだろう。そして〈内省的な長次郎茶碗から斬新でモダンな方向に舵を切ったことで、道入の革新性が現代においても高く評価される〉(同著)ところは、十五代の作品にも共通する。そして、篤人は次のように考える。
「(僕が)最悪なのは父を意識するがあまり、作品が似てしまうこと。あるとき詳しくない友だちにお茶碗を出したとき『あっ、やっぱりお父さんに似ている』と彼は好意で言ったのだと思うけれど、ショックでした。
 父の作品が好きだし、大きな存在なので意識はするけれど、作品自体が近づいてしまっては、樂家の表現者とは違う。やはり初代・長次郎が自分とどう向き合ったか、そして、その長次郎と歴代が利休の目指す侘び茶とどう向き合ったか、そのうえで自分がどういうものを作るかが大事で、それが一子相伝で受け継がれる樂家らしさ。歴代のうちの一人に父がいるということです」
 このように一子相伝といっても、世間がイメージするものと、樂家のそれとはだいぶ隔たりがある。
↑自身の樂茶碗を手にする篤人。「展示会で見せるだけでなく、実際に手にした方が、今日これでお茶を飲んで、また次の日にもと、近くに置いてもらえるものを作りたい」
 ただ、父が七〇年安保闘争など学生運動の空気も吸いながら若い頃を過ごしたことや、Tシャツにジーンズのヒッピー・スタイルで海外を放浪したことなど、生き様については薫陶を受けているようだ。たとえばイタリアでドライブしていたとき、車が故障して動けなくなったのである村で一か月くらい車中生活をしながら、そこの人たちと交流した型破りな昔話など、生き方の自由さなども聞きながら暮らしていることが糧となっている。
 篤人が次代を受け継ぐ平成の末期は、畳の暮らしのほうが珍しく、茶道をするための前提条件そのものが根源的に変わっている。そうした時代に樂茶碗を作り始める篤人には、いまがどんなふうに映っているのか。
「茶の湯の世界も、六十〜九十代が中心世代で、年をとって座れないのでお茶を止めるという方が増えている一方、昔は花嫁修業やお稽古として習い始める方がいたけれど、いまはそれも少ない。そして作法の茶碗を拝見のお稽古で『お茶碗は?』と聞かれて『樂でございます』と言葉だけを反復させられているので、実際のお点前で樂茶碗が出ても、樂茶碗とわからない方もいる。
 似たようなことで、京都に来て、お寺などを見て景観を表面的に喜ぶ方はいても、受け入れ側がその先の文化にまで関心が向くように中身を伝えないので本質が理解されず、理解されないので取っ付きにくい。取っ付きにくいので敷居が高くなっている面がある。
 ただ苦しいときはチャンスなので、それが次の代になるかもしれませんが、面白くなるのかもしれません。
 たとえば自分自身で興味を持ってくれて、展覧会に足を運んでくれて、正面だけの写真では見えない後ろや横、そして内側なども見て、自分なりの発見をしてくれる方も少なからずいる。今回京都と東京で行なった展覧会も、まずまずの成功だったと思います。
 本当はお茶碗は使うものなので、お抹茶を飲み終わった時に出てくる表情を味わってもらえると一番良い。美術に関係ない友だちが京都を訪ねてきたときに、自分の作品でお茶を飲んでもらったら、すごく感動してくれて、美術館なんかに興味がないはずなのに、(窯場と同じ敷地にある)樂美術館に足を運び、長次郎と父の作品の前で、『いや別格、いままで感じたことのない身震いがした』と言ってくれたことがある。そのときに全然関係ない人でも、感じる人には伝わるんだと気づきました。確かに畳のない暮らしをしていても、日本に生きている限り、何かしら茶の湯の文化に通じるものはあるので、そこをどう見つけて、どう広げるかだと思うんです」
 インターネットやスマホなどが普及し、人付き合いまでもが疑似的になるなかでも、樂茶碗が持つ本物の強さは変わらないし、日本人ならば、それを感じる人の感性も失われない。そんな希望を持っているのだろうか。樂家の歴史における彼の歩みは、これから始まるのである。
らく・あつんど
  • 15代・吉左衛門の長男として生まれ、東京造形大学造形学部美術学科(彫刻)卒業後、京都市伝統産業技術者研修・陶磁器コース修了、イギリス留学を経て、2011年から樂家にて作陶生活に入る。篤人を名乗るほか、吉左衛門襲名前の「惣吉」の花押を父から預かる。2016年にサンクトペテルブルグ・エルミタージュ美術館で行なわれた「樂−茶碗の中の宇宙」展で、自身の樂茶碗を初出品した。