「本」と「人」を結ぶHOT LINKS BOOK PEOPLE
BOOK PEOPLE × 本の窓
  • 自著を語る2
    谷口桂子
    『越し人 芥川龍之介 最後の恋人
  • 2017.8
恋文の行方
 芥川龍之介没後九十年にあたる今年の河童忌にあわせて、芥川の「最後の恋人」といわれている女性を主人公にした小説を刊行した。
 何人ものプロ作家が書きたいと名乗りを上げながら果たせなかった伝説の上流夫人だ。
 歌人でアイルランド文学翻訳家の片山廣子は、長く芥川や弟子の堀辰雄が恋慕した才女として一部の人に知られていた。堀辰雄の小説『聖家族』『菜穂子』のイメージがあったのだろう。
 堀辰雄は手紙を読んでいなかったのだろうかと、私は思った。
 廣子から芥川に宛てた十数通の恋文が存在する。
 その恋文は芥川の生前に彼の甥に託され、国文学者の吉田精一氏に渡った。
 抜粋で紹介されているが、こんな一文がある。
──わたくしたちはおつきあひができないものでせうか。
 十四歳年上の彼女のほうから誘っているのだ。
 雅な貴婦人というイメージが覆って私は混乱した。
 その後、手紙は辺見じゅん氏に渡っている。廣子のことを書きたいといっていた作家の一人だ。
 手紙の行方で驚くことがあった。
 芥川の甥から吉田氏には譲られたと思っていた。
 ところが吉田氏は芥川比呂志氏との対談で、古書即売展で廣子から芥川宛の手紙十数通を二十万ばかりで手に入れたと語っている。廣子の恋文はお金に換わっていたのだ。この事実を廣子が知ったとしたら……。最後までどう書くか迷った箇所だ。
 廣子の一人娘は堀辰雄が失恋した相手とされている。
 娘から堀辰雄に宛てた手紙も存在する。
──アソビニイラツシヤイ。
 そのあとに、うちのベッドは大層ギイギイいうと続く。
 母と娘は堀辰雄が描いたような受け身の女ではなく、ひょっとしたら男女の立場は逆転していたのではないか。
 もっとも堀辰雄夫人からは、「主人が好きだったのはおばさま(廣子)」だと私は直接聞いた。
 その堀夫人に紹介された国文学者から、「谷口さんの発見としてお使いください」と譲られた長谷川時雨の日記によって廣子にもう一人の男が浮上する。
 廣子について、寂しい人、冷たい人という声を聞いた。
 そういう面もあったかもしれないが、私は彼女の中に、ときに御せない焔を感じずにはいられない。
 日銀理事の夫や息子を失い、戦後は銭湯通いもする。

  砂糖ほしくりんごも欲しく粉もほしとわが持たぬ物をかぞへつつをる
  われもまた湯気にかこまれ身を洗ふ裸體むらがる街湯のすみに

 七十を過ぎて、『赤毛のアン』の訳者となった村岡花子に仕事の紹介を頼む文を送っている。
 廣子は芥川が自死して三十年後に亡くなった。
 その歳月を不幸という人もいるが、夢幻をいのちとし、誇り高く生き抜いた生涯だったと思う。
 素人玄人あわせて幾人もの女が芥川を取り巻いたが、「越し人」「相聞」のような美しい叙情詩を捧げられた女性が他にいるだろうか。廣子の魅力、魔力によるもので、これ以上の恋文はない。
 詩人としての芥川が再評価されてもよいのではないか。
 ところで芥川から廣子に宛てた手紙も存在した。
 廣子の死後身内が処分したようだが、私の中の廣子は人任せにしなかった。自らの手で灰にすることで鮮烈な記憶として我が身に焼きつけたのだった。
  • 『越し人 芥川龍之介 最後の恋人
    谷口桂子/著
    定価:本体1,600円+税
    小学館・刊 四六判 322ページ
    大好評発売中
    ISBN 978-4-09-386474-9
    詳しくはこちら