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BOOK PEOPLE × 本の窓
  • 「いまどきの若いもん」
    解体新書
    第21回
  • 2017.12
橋本保/取材・文
高座を勤める神田松之丞。落語とは異なり、釈台と呼ぶ机を前に、右手に張扇、左手は扇子を使って演じる。講談は『平家物語』の琵琶法師や、『太平記』を読んだ戦国時代の御伽衆にまでも遡り、幕末から明治中期まで全盛期を迎える。戦後は女性の活躍が目覚ましかったが、若手男性の意味でも、松之丞は注目されている。
神田松之丞(34歳)
1983年6月4日生まれ
講談師
「冬は義士 夏はお化けで 飯を喰い」と言われる講談師。この世界で、真打ち並みに客を集める二ツ目の新人、それが、神田松之丞である。テレビやラジオではお笑いタレントのようにも振る舞ってみせるが、それとは違う、芸に身を捧げる素顔に迫った。
Photographs:Chisato Hikita
講談会のホープと期待され、
メディアの露出も増えている神田松之丞
高座とも、ラジオとも違う雰囲気で語る、
いま目指すこと
 落語や浪曲と並ぶ話芸とされる講談。そこに「長年待っていたスター」(高田文夫)、「気鋭の若手」(『an・an』)と称される講談師が現れた。今年、芸歴十周年を迎える、三十四歳の神田松之丞である。
 真打ち昇進前の二ツ目(前座の次)にもかかわらず、寄席は、彼目当てのファンで賑わう。今年八月にイイノホール(東京・内幸町)で行なった昼夜独演会は五百席がそれぞれ満席となる。いま約八百人いる落語家のなかでも同じような集客力があるのは二十人と言われる中、快挙である。このほか今秋からTBSラジオでレギュラー番組が始まったり、初の著書『絶滅危惧職、講談師を生きる』(新潮社)を出版するなど活動の幅を広げている。
「寄席などが毎日のようにありますね」と聞くと、「ホームページなどで告知している仕事のほかにも、一日二、三席クローズドな会などがあるんですよ」などと低い声で答える。ラジオのしゃべりや寄席で演じる様子とは違い、淡々と、抑揚なく話す。ほとんど感情は表に出さない。
 彼のインタビューで多く語られるのが、小学四年生のときに会社員だった父が自殺したことだ。
「人間って面白くて、子どもってあまり考えないんですね、目の前の死。父親が死んだのに。テレビをパチャパチャ自分の好きな番組に替えられて良いな、とか思っていましたから。悲しいんだけど、リアリティがない。亡骸があっても、実感がない。自分を俯瞰で見てました。
 ただ、担任の先生がクラス全員を連れて葬式に来てくれたときには号泣した。あれは何だったんだろう。いま考えると、僕は逃げ場がなくなって泣いたと思う。小学生って、家族の家の世界と、塾も含む学校の世界と、基本は二種類。父の死は家の世界のことだから、学校の世界に影響はないのに、クラス全員が来て両方の世界が繋がった。来てくれてありがとうなんだけれど、別々の世界にいる、それぞれの自分が繋げられちゃった。子ども心に、逃げられるところがないと思ったのかもしれません」
 このときから自覚するほど、性格が変わった。
「もともと明るい子どもだったんだけれど、父の死の後は担任の先生などに、ふと能面みたいな顔になると言われるようになりました。楽しい話をしていても急に、親父は死んだんだよなと思い出すと、そうなってしまうんです」
 この性格の変化については、自分が勝手に理屈付けしているのではないか、わかりやすい物語にしているのではないかと懐疑的になるという。自分を俯瞰するような、冷めたような視点でこう話す。
「人間の記憶って捏造されますからね。大学生時代に伯龍(六代目・神田伯龍、講談師。二〇〇六年没)の「雨夜の裏田圃」(大岡政談のひとつ『村井長庵』第三話)にある人殺しの場面で殺人者が、雨に気を取られることにゾクッと来て、講談に引き込まれたことがありました。人殺しをしたのに雨が気になるんだ、と。実は最近、NHKの番組収録のときに、当時の音源を聞く機会がありました。そうしたらその場面で伯龍は、雨が降っていたとは言ってなかった。よく言えば、伯龍の芸がそう思わせたわけですが、自分が勝手に記憶を捏造していたんです。だから親父が死んで、そこで(古典を連綿と)繋いでいく伝統芸能に目覚めてと、わかりやすい論理の組み立てもできるんですが、そこはねぇ……」
 話し進むと、彼の世界に吸い寄せられ、雑談のときとは違う磁場が起きたようになる。こちらが質問をしたくても、それを寄せ付けない。気づくと松之丞の目つきが鋭い。吸い込まれるように、俯瞰したようなあの視点を共有させられるようなのである。
「学生時代は人と付き合うのが嫌になる。高校時代に一人だけ友人ができますが、基本は一人で行動していました。落語や講談は、一人と相性が良い。舞台の人も一人で、孤独。その人の世界と、自分の世界を照らし合わせ、想像して物語をその場で作る。お互い呼吸を整えるのは、僕のような暗い人間には居心地が良かった。
 落語とかの話芸って、明るい芸ではなく、暗い芸と思う。社会や状況を斜交いに見て楽しむ面がある。もちろん面白いんですよ。自分もみんなも笑うけれど、どこかで“人間って面白いけれど、なんか寂しいし、辛い生きものだね”と感じている。また、そこを強調せず、さり気なくわかる文化の豊かさを感じていたと思います」
 父を失うが、母と四歳上の兄との暮らしは、母の実家からの支援もあり経済的困窮をせずに済んだ。ただ、逆境がないゆえの陰鬱なモラトリアムを経験する。
「文化の豊かさを自分が感じられる選民意識、受信能力の高さ、他人から見ればイタいだけですが、音楽とかメジャーなもので、明るくふぁーふぁーやってる奴らとは自分は違うと思っていました。(親父が死ぬ前は)そっち側でしたけれど。そうじゃなくなっちゃったから居場所を探していたんでしょうね」
講談は面白いのに、講談師がつまらない
 浪人時代に、繰り返し寄席に足を運んだ松之丞は、ぼんやりと話芸を演じるほうへと向いていく。決定的だったのは立川談志の寄席に通い始めたことだった。
「談志師匠は、若ものに勇気を与え、導く力があった。まくら(本編前の短い話)で『若い人も来てくれているけれど、あなた方は間違っていない。俺を見に来るだけで見込みがある』と洒落めかして言ってくれる。選民意識を持つイタい若ものを、お前らは正しいと、励ましているようでした。
 大学生になっても演じる側にならず、お客さんとして見る時代と決めていたところがあります。後からわかるのは、お客様側の視点ってすごく大事なんです。たとえばお酒が飲めないのに、お酒を飲む仕草がうまい落語家がいる。それは年中、酒飲みが酔う様子を見ているから。あの時期は、そこを鍛える意識もあったと思います」
 立川談志と直接会話をしたことはないが、彼の会を通じて松之丞は講談や浪曲の面白さを知った。そして前述した神田伯龍の寄席で、講談師の道へ引き寄せられ、最終的には師匠・神田松鯉の門を叩く。なぜ落語でなく、講談なのか。講談は面白いのに、講談師がつまらないことが彼には不満だった。それは、怒りに似た感情である。
「まくらが絶望的につまんない。そもそも人として面白くない。講談に入る以前のことなんです。
 あと講談は感情移入をしない芸能と言われるけれど、実はそうではない。江戸時代の講談師、たとえば東流斎馬琴は、男は男の声、女は女の声と、わかりやすく色分けし、感情移入させて、講談に没入させた。最初はすごく批判されたけれど、それまで男しか聞いてなかった講談が婦女子に人気が出たんです。また(明治時代に活躍した)大島伯鶴は、笑いを多く取り入れた。『あれはチャリ講談』と批判されたけれど人気が出た。講談の歴史では革命児が出るごとに、復興しているんです」
 話芸のなかでも落語は「話す芸」、講談は「読む芸」、浪曲は「語る芸」とされる。元となる文章があり、それを朗読・朗誦するので講談は「読む芸」なのである。ただ、その読み方も色々あるほか、釈台、張扇、扇子を楽器のように鳴らし、テンポよくリズムを取りながら話を進めるなど、創意工夫の余地は様々にある。
右から、合引、張扇、扇子。合引は、座布団の上に置く補助椅子で、膝痛や腰痛を防ぐために使う。張扇は、材料を仕入れ、自分で良い音が出るように工夫して作る。張扇と扇子は、演じる際の刀剣やキセルなどとして使う。
 松之丞は、まくらから客を引き込む。ある評論家との人間関係、取材が来たときの謝礼の有無、寄席に招かれた女子校を下見したときの話題など。とにかく面白い。そして本編では、落語のように感情移入させたり、殺人者の心の闇を覗かせて恐怖を味わわせるなど、まるで松之丞に糸で操られているような感覚にもなる。
「自分の好きなものを共感してもらおうと思ったとき、誰の何を聞かせたら良いかとか、どこに連れていけば一発で嵌まるかってありますよね。講談には、この人の寄席に連れていけばという人がいなかった。ちゃんと講談に熱があり、伝統に対する敬意があり、そのうえで面白い同世代の講談師が。ならば、俺がやればいいや、と思ったんです」
 それから十年。売れる講談師へと成長した。
 今回の取材中、ある寄席で松之丞は『赤穂義士銘々伝』「安兵衛婿入り」をネタ下ろしした。剣の腕前は良いにもかかわらず毎日酒を飲んで腐っていた中山安兵衛が、高田馬場の助太刀がきっかけで堀部家へ婿入りし、堀部安兵衛となった場面で、「落語の主人公は年中酒を飲むなどダメ人間なのがお決まりだが、講談のそれは、決めるときには決める男」と安兵衛を紹介した。講談師という自分の居場所を見つけ芸の道を歩む松之丞と、どこか重なる印象がした。
「二ツ目のいまは、すごく楽しいです。いまは芸が良かったら二ツ目なのに上手だね≠セし、ダメでも二ツ目だからしょうがないね≠ニいう感じですから責任がない。芸人にとっての子ども時代なので、一人暮らしをしていない実家暮らしのようなもの。ただ真打ちになったら、責任は違うと思います。二ツ目を、前期、中期、後期に分けるなら、もう後期。普通はあと五年です」
 一度は逃げ場を失った松之丞は、再び自分の楽しい居場所を見つけた。本人は「二ツ目でありながら、イイノホールを昼夜満席にした時点で、伝統芸能の寄席芸人という小さなコップの中では上がり」とする。今後は、講談が豊かな伝統芸能にもかかわらず知られていないことと闘うという。そのためにはきちんとギャラ交渉をする。それも現状への怒りが掻き立てているのだろう。
「講談会も落語会も歌舞伎などに比べれば、安い木戸銭なんですよ。そこがとても良いところ。もちろん、ジャンルとして内容が粗末なわけではない。そこを勘違いされると嫌だなぁと。親しみやすい存在で、かつ絶対的なジャンルでありたい。なので金銭的な面でも、講談会にお金が落ち、下の世代が育つようにする必要がある。だからギャラの交渉なども自分でやるし、仲間内の仕事は別として、ほかはシビアにギャラをいただく。下げると、僕の下の人は、それより下になるので」
 昨年、松之丞は結婚して生活環境が変わった。そうした経験や、年齢を重ねることは芸に資すると考える。
「僕は、タレントではなく、芸を究めようとライブで生きていく芸人です。メディアに出るのは、ラジオを聞いた、面白かった、それが講談師だった。じゃあ講談を聞きに行こうとなるきっかけを作るだけ。芸って一日やらないだけで壊れていくので、その緻密さを維持するには本業を大事にする必要がある。たまたま講談を聞きに来て、それがだめだと本末転倒ですから。女房を持つと、その関係性っていうのがこういうものなのか、今後子どもができれば、ああ、この一言は、いないとわかんないなとか、そう言われたら泣いちゃうな、とかがわかる。僕が年を取れば取るほど、人生経験を得れば得るほど、芸が変わると思います。最近腰が痛くなり(笑)、そういう人の気持ちもわかると、芸も変わる。僕は学生のときに客席から、その演者が自分の分野を突き詰めているかを見ていた。野球ならばバットの素振りを毎日続けるような超地味なことをちゃんとやっているか否かです。だから寄席は毎回オーディションのような気分です」
 いま最大の課題は、東京や大阪の盛り上がりや知名度を全国区にすること。他所では必ずしも五百席が埋まるわけではない。彼の名が全国に知られるようになったとき、伝統芸能としての講談は日本人に身近なものになり始めるはず。彼は、未来を見据えているのである。
かんだ・まつのじょう
  • 東京都豊島区出身。2007年、武蔵大学経済学部経営学科卒業。松之丞は、忠臣蔵の大石主税(大石内蔵助の嫡子)の幼名で、神田松鯉師匠から授かった。初の著書『絶滅危惧職、講談師を生きる!』(新潮社)は、彼の生い立ち、なぜ松鯉師匠の門を叩いたか、入門後の破天荒ぶりなどに触れている。TBSラジオ「神田松之丞 問わず語りの松之丞」(火〜金、19時30分〜19時40分頃)は、寄席のまくらや、深夜ラジオのようなディープな笑いが楽しめる。読売新聞で大衆演芸を中心に担当する長井好弘編集委員は〈連続講談を現代によみがえらせるためには、松之丞の「笑い」が大きな武器になる〉(『松之丞 講談 −シブラク名演集−』演目解説)と見ている。