第一話

 いつか来たいと思っていた万葉ゆかりの地。『裏ななつ星』で訪れることになるとは、やや意外である。このプロジェクトには二つ、または三つの必須条件がある。というか、ぼくたちのあいだでは暗黙の了解になっている。それは美味しい食べ物と温泉。ついでに美味しいお酒。この三つが絶妙なハーモニーを奏でることになっているのだ。もちろんメイン・テーマはスローなローカルの旅。でも温泉に入り、美味しいものを食べて、美味しいお酒を飲まなければ、画竜点睛を欠く。個人的には、目玉を描き込むために旅に出ている節もある。
 では新幹線か何かで、ピーッとどこかの温泉地に行き、料理を食べて酒を飲んで、一泊して帰ってくればいいではないか、という話にはならない。やはり普通列車でのろのろ、途中で降りたり寄り道したり、いろんな人やものと出会い、驚いたり困ったり憂えたりしながら、今日も一日終わりましたね、お疲れさま。お風呂に入って、まずは冷たいビールで乾杯、それからあれを食べよう、これを飲もう……などと夕暮れに向かう車窓の風景を眺めながら愚考する、なんとも心躍るひととき。この楽しさこそが『裏ななつ星』の醍醐味、「裏」でなければわからない味わいである。
 ところで今回の旅程、万葉ゆかりの地をめぐる旅では、そうした二つないし三つの必須条件を満たせるかどうかが、ちょっと微妙な塩梅になっている。まず湯煙の匂いが心なしか希薄である。いや、なくはない。温泉はあるらしい。お酒はどんなものだって、ぼくたちには美味しいからノー・プロブレム。しかし美味しい食べ物……探せばあるとは思うのだが。ほら、よく耳にするじゃないですか、「奈良にうまいものなし」とか。かつては「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」なんて言ったものらしいが、それは千年以上も昔の話で、目下のところは「奈良→うまいものがない」のほうが俄然気になる。真相はどうなのだろう。どうやら志賀直哉の随筆の一節を、後世の人が誤解(曲解?)したものらしいが、ご当地の人たちもやや謙遜気味に口にするものだから、旅人としてはちょっと心配になる。これが大阪府民なら、「なにアホなことゆうてまんねん。うまいもん? ぎょうさんあるでえ。喰って、倒れて、いてこましたろか!」と、ほとんど意味不明、そもそも日本語になってない、ということになるのであるが、奈良県民は慎ましやかなのだ。

   

 それはともかく、今回の旅のメイン・テーマは『万葉集』である。日本人の心のふるさと、現存する最古の歌集。これほど日本人の心に深く入り込み、広く、かつ長く読み継がれてきた書物があるだろうか? あるかもしれないが、いまはないことにして先へ進む。ネームヴァリューでは世界水準の『源氏物語』も、通読(もちろん現代語訳で)した人は少ないと思われる。たいていはマンガや映画などの二次使用をとおして、なんとなく内容を知っているという程度ではないだろうか。その点、『万葉集』に収められた歌は、いつのまにかインプットされている。ある世代以上になると、幾つかの歌は諳んじられる人が多いだろうし、若い人でも「あっ、知ってる!」という歌はたくさんあるはずだ。まさに日本人の文学的遺伝子、キリスト教圏の人たちにとっての『聖書』みたいなものか。
 ここで少しおさらいをしておこう。『万葉集』には短歌や長歌など四千五百首余りの歌が収録されている。このうち長歌は、ほとんど『万葉集』のなかにだけ見られる様式で、後代に継承され発展することはなかった。それにたいして短歌のほうは、プロからアマチュアまで、また皇族から庶民まで、大勢の実作者がいる。わが国でもっとも親しまれている文学ジャンルと言えるだろう。ちなみに天皇が自ら歌を詠むという伝統は、『万葉集』あたりからはじまった。なぜか天皇によって書かれた小説は、ぼくの知るかぎりでは存在しない。残念である。いまの皇太子あたりには、ぜひ挑戦してもらいたいと思う。きっといい作品が書けるはずだ。

   

 閑話休題。『万葉集』の成立は七百年代の後半と考えられている。千年以上も昔の作品なのに、現代のぼくたちが読んでも、それなりに味わうことができるし、楽しむことができる、というのは不思議な気がする。これには五七五七七という短歌の形式が大きく寄与しているだろう。この韻律というか、言葉のリズムが、われわれ日本人にはとても心地よく感じられるのだ。また日本語というのは、五音、七音という音節に馴染むようになっている。日本語自体が、こうした音のリズムとともに発達してきたという側面をもっているらしい。とくに感情表現に赴くとき、このリズムを採用すると不思議にうまくいく、ということを日本人は体験的に知っている。そんなことからも、現在なお多くの短歌の愛読者ならびに実作者が生まれているのだろう。
 それにもかかわらずというか、いま言ったばかりのことと矛盾するようだが、『万葉集』に収録されている歌の意味は、厳密に言うと、ぼくも含めて一般的な日本人にはよくわからない。専門の研究者でないと、正確な意味はたどれないと言っていいだろう。専門家でも持て余す歌はたくさんあるらしい。また彼らの解釈がすべて正しいとも限らないだろう。ただ正確な意味はわからなくても、なんとなく雰囲気というか、イメージというか、歌が湛えている抒情みたいなものは、日本人であれば誰でも感受できるようになっている。それは先にも述べたように、短歌が明快な韻律をもった定型詩であるということが大きな理由だと思う。つまり言葉のリズムによって読めてしまう。わかった気になることができるわけだ。英語の歌詞がわからなくても、ロックを楽しむことができるようなものだろうか。

>>第二話に続く