第七話

 宇陀市を訪れる。市内は幾つかの地区に分かれていて、三重県と境を接する室生地区には、土門拳の写真集で出会って以来、いつか訪れてみたいと思っている室生寺がある。でもスケジュールの都合で今回は断念。次回以降のお楽しみということにして、ぼくたちは一路、この旅のメイン・イベントである阿騎野(あきの)へ向かう。
 『万葉集』におさめられた数多い歌のなかでも、ひときわ雄大でドラマチックなものは、六九二年(持統六年)の冬、軽皇子(かるのみこ)が阿騎野に冬猟に出かけたとき、柿本人麻呂がつくったとされる歌(一・四五〜四九)ではないだろうか。長歌を除く短歌四首を見てみよう。

阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 寝(い)も宿(ね)らめやも いにしへおもふに(一・四六)

真草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君が 形見(かたち)とそ来し(一・四七)

東(ひむだし)の 野のかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ(一・四八)

日並(ひなみし)の 皇子(みこ)の尊(みこと)の 馬並(な)めて 御猟(みかり)立たしし 時は来向ふ(一・四九)

 歌を読むだけでも、狩猟の様子はわかる。おおまかに意味を見ていこう。まず狩猟が催される場所に到着した場面。昔ここで狩りをした人たちのことが思い出されて寝つかれない、というのが一首目の歌。亡くなった人の面影を偲んで、われわれはこの荒野にやって来た、という二首目を経て、有名な三首目、東の野辺には曙の光が射して、振り返って見ると、月が西空に傾いているという歌。日並皇子が馬を並べ、狩りに踏み立たれた時刻になった、さあ狩りをはじめよう、という高揚した気分をうたった四首目。という具合に、冬の遊猟の様子が時系列的に歌われている。

   

 これらの歌については、白川静が秀逸な解釈を残している(『初期万葉論』)。少し紹介してみよう。この安騎野(阿騎野)の冬猟がおこなわれたとき、軽皇子(のちの文武天皇)は十一歳だった。当時の天皇は持統で、彼女は天武の妃、日並皇子(草壁皇子)の母、軽皇子の祖母にあたる。天武の崩御が六八六年、持統は息子の日並皇子を即位させようと考え、それまで地位を保全するために自らが女帝の位につく。ところが日並皇子は皇太子にまでなりながら、天武が崩じた翌年に、即位をまたずして亡くなってしまう。そこで彼女は孫である軽皇子に皇統を継承させようとする。
 こうした意図のもと、持統の手によって周到に画策されたのが安騎野の冬猟だった、というのが白川の説である。猟がおこなわれた安騎野は、父である日並皇子の、かつての猟地だった。その父は、天皇霊の保持者たる資格をもちながら急逝してしまった。父が狩猟を楽しんだ地へ赴き、日並皇子が保持していた天皇霊を呼び起こし、それと合一することで天皇霊を継承しようとした。人麻呂の歌に詠まれている「旅宿り」や「旅寝」は、その地霊に接することであり、かつてそこで行われたことを復活させるための儀礼的・呪的行為だった。一首目の「うちなびき」も「いにしへおもふ」も、霊を呼び起こし、接近しようとする心的営みであり、祈願を成就するための儀式だった、と白川は説得力のある論を展開している。

 呪歌ないし呪的な歌は、他にも様々な目的のためにつくられた。たとえばある土地を通り過ぎるときには、地霊に挨拶をするのがならわしとされていた。これには旅の安全を祈願する意味もあったのだろう。やはり白川がとりあげている例で見てみる。

稲日野(いなびの)も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 可古の島見ゆ(三・二五三)

天ざかる 夷の長道(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ(三・二五五)

武庫の海の にはよくあらし 漁(いざり)する 海人(あま)の釣舟 波の上ゆ見ゆ(一五・三六〇九)

古の 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(九・一七二五)

 いずれも人麻呂の作による旅の歌である。旅といっても、後代の芭蕉たちのような個人的動機による旅ではなく、国巡りと呼ばれる公的な視察、ないしは都と任地とのあいだの行き来といったものだったと考えられる。その際には、通過する土地の景観にたいして歌を献ずるというのが古代のならわしだった。これは地霊への挨拶であり、表敬の意味合いが込められていた。あるいは三首目の歌のように、海人が釣をする穏やかな海をほめることで、実際に海が静まるという呪的効果が期待されたのかもしれない。四首目の「見れど飽かぬ」になると、より積極的な賞賛ということになるだろうか。いずれにせよ、たんに風景を描写している叙景の歌ではなかったと思われる。

   

 古代の日本には、「国見」という農耕儀式があった。天皇や地方の長が高いところに登って、国の地勢や景色、人々の生活の様子などを望み見ることをいう。それによって一年の農事をはじめるにあたり、秋の豊穣を予祝したのである。この場合の「見」にも、明らかに呪的な機能が期待されている。白川によると、「みる」は視覚的な意味だけではなく、自然の景観のなかにたゆたう豊かな生命力を自己のうちに取り込むというような、対象との霊的な交通や交渉関係を含みもつ言葉として使われていた。とくに人麻呂の歌に見られるように、「みゆ」という受け身の形でうたいおさめるときには、呪語としての意味合いが強かったと白川は述べている。
 このような「見ゆ」や「見れど飽かぬ」の用語法は、『万葉集』のなかでも初期の歌に限られたもので、時代が下るにつれて、歌に込められた呪的意識は希薄化していく。それは律令制的な秩序の安定とともに、見知らぬ土地を通過することの不安や緊張が和らいできたせいかもしれない。国内が平定されてくれば、実際の旅の危険性も小さくなる。こうした事情にともない、自然の景観は神秘性を失い、「みる」という行為からは宗教的性格が消えていった。人々のなかから、古代的な自然観や自然感情が失われていったと言っても同じだ。そして自然の景観を美的対象として認識し、受容する観照的な態度とともに、叙景的な抒情性をもった歌が生まれてきたと考えられる。

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