第八話

 氏族共同体的な集団意識のなかでは、魂というものが非常に強い威力を発揮すると考えられていた。だから鎮魂法が重要な意味をもっていた。何かにつけて滅びた者への鎮魂の挨拶が欠かせなかった。これを怠ると、死者の魂は大きな禍をもたらしかねない。また天皇霊に見られるように、自分のなかに取り込むことができれば、権力の継承者としての威力が生じると信じられていた。
 とくに人麻呂たちが活躍した時代は、絶え間ない宮廷内での勢力争いを経ながら、しだいに律令制を骨格とした天皇権力が強固に統一されていく過程にあたっている。そうした不安定な時期において、魂振りによる鎮魂法は、公的権力の確立の上でも大きな意味をもっていたはずだ。人麻呂のような宮廷作家が重用されたのも、たんに詩歌をつくって貴人たちを楽しませるというよりは、もっと政略的な理由によるものだったのかもしれない。先の冬猟歌などは、王権を正当なものとして権威づけるといった、神話と似た機能を果たしていたと考えることもできそうである。
 古代の天皇の葬送儀礼に「殯(もがり)」の習俗があったことは広く知られている。これは死者の遺体を長い期間にわたり、喪屋と呼ばれる小屋に収めて葬送を行うことをいう。七世紀に書かれた『隋書』倭国伝には、「貴人は三年外に殯し」という記述が見られる。また『日本書紀』が記すところによると、天武天皇の殯は二年に及ぶ長いものだった。こうした皇族たちの死に際しては、殯宮(もがりのみや)という遺体を安置するための建物まで設えられた。『万葉集』では「あらきのみや」と呼ばれている。さらに殯宮に奉仕して歌舞や供膳の役を務める人たちが、「遊部(あそびべ)」という職能集団として一つの氏族を形成していたことも知られている。

   

 こうした風習が有力な首長層だけでなく、広く一般的に行われていたことは、大化の改新の後に出された「薄葬令」(六四六年)によって、庶民の殯が禁止されたことからもうかがわれる。葬送に数年という長い期間を要したことは、現代の感覚からすると異様な気がするけれど、古代の人たちは、死んでも一年くらいは生死が決しないと考えていたらしい。そのあいだは死者の復活を願いつつ、一方で死者の霊魂を畏れ、これを慰める必要を感じたのだろう。長い時間の経過のなかで、遺体の腐敗や白骨化といった物理的変化を見届けることで、ようやく死者の最終的な死を確信できたのかもしれない。ちなみに現在も行われている通夜は、殯の名残とも言われている。
 天皇のように身分の高い人が亡くなった場合は、長い葬送の期間中に、「誄詞(しのびごと)」という死者を追悼する言葉が奏上された。これも現在の弔辞に、名残をとどめていると言えるかもしれない。つまり死者を偲び、功績を讃えるための言葉である。ここから挽歌が生まれてきたと考えられている。『万葉集』におさめられた挽歌には、夫人などがつくったとされる後宮挽歌や、専門の詞人たちの手になる舎人挽歌などがある。
 巻第二には、とりわけ挽歌が数多く収録されているが、そのなかに「皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等が慟傷(どうしょう)して作れる歌二十三首」と題された一連の挽歌がある。ここで「皇子尊」と呼ばれているのは、安騎野の冬猟歌の主人公であった日並皇子(草壁皇子)のことだ。「舎人」というのは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者たちのことである。皇子が亡くなったとき、彼らが献じた歌ということだろう(折口は人麻呂の代作と考えていたようだ)。
  これらの歌のなかで、鳥についてうたった以下の三首を見てみよう。

島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君いまさずとも(二・一七二)

御立せし 島をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年代はるまで(二・一八〇)

鳥くら立て 飼ひし雁(かり)の兒 巣立ちなば 真弓の岡に 飛び帰り来ね(二・一八二)

 「島の宮」というのは、皇子がいた離宮のようなところだと思う。皇子は生前、鳥を飼って愛玩していたのだろう。その鳥たちが、主のいなくなった宮の池の上を飛んでいる様子をうたったものだ。折口も述べているように、古来、鳥は魂の運搬者と信じられていた。人の霊魂は鳥によってもたらされ、また鳥になって去るという考え方があったらしい。とくに水辺に飛来する渡り鳥は、遠く霊界へ去った死者たちの魂が、時を定めて帰ってくるものと考えられていた。

   

 上の歌で、最初の二首はともに「荒びな行きそ」という表現が出てくる。これは「どうか離れ離れになって飛んでいってくれるな」というくらいの意味だろう。三首目の歌も、皇子が飼っていた鳥の雛がかえって巣立ちをしようとしている。その鳥たちに、「また帰ってきておくれ」と呼びかけている。つまりこれらの歌は、皇子の魂を呼び戻そうとする「招魂」の歌と解すことができる。
 すると人麻呂の作とされる、つぎの有名な歌はどうだろう。

淡海の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしえ)思ほゆ(三・二六六)

 夕暮れの波間を鳴きながら群れ飛ぶ千鳥をうたった叙景の歌と解釈しても、充分に歌の美しさと情感は伝わってくる。水鳥たちの鳴き騒ぐ声を聞いているうちに、ぼんやりとした気分になって、過去のことがあれやこれやと思い出される、といった体験は誰にもありがちなものだ。しかし、そうしたオーソドックスな解釈では済まないのかもしれない。この歌が詠まれたのは、人麻呂が大津の近江朝廷跡を訪れたときとされている。壬申の乱(六七二年)で朝廷軍が敗れ、大友皇子(おおとものみこ)が自害して果ててから、それほど年を経ていないころだ。かつての大津宮は荒れ果てた廃墟になっていたことだろう。この歌について白川は、「夕波千鳥」が鳥形霊の面影をとどめているとした上で、滅びた者たちへの鎮魂歌であると断じている。
 このように見てくると、『万葉集』とそれ以後の和歌の伝統とのあいだには、かなり大きな断絶があるように思われてくる。一般的な和歌のイメージ、花鳥風月や「もののあはれ」みたいなものは、平安期の貴族社会のなかで育まれた。しかし『万葉集』におさめられた多くの歌は、この国が無文字の部族社会だったころの面影を濃く漂わせている。ぼくたちが漠然と思い描いている日本とは、かなり違った、あるいはまったく別物と言ってもいいような、この国のもう一つの姿。今回の『裏ななつ星』は、そんなミステリアスで未知の「日本」と出会う旅でもあったようだ。
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