INDEX

第一回 石川五右衛門 公開終了

第二回 ユーリ・ガガーリン 公開終了

第三回 ビンラディン 公開終了

第四回 小野小町 公開終了

第五回 頭山満 公開終了

第六回 キュリー夫人 公開終了

第七回 フリードリヒ・エンゲルス 公開終了

第八回 アルフレッド・ノーベル 公開終了

第九回 武蔵坊弁慶 公開終了

第十回 バラバ 公開終了

第十一回 グリゴリー・ラスプーチン 公開終了

第十二回 クォン・デ 公開終了

第十三回 坂本龍馬 公開終了

第十四回 飯島ショッカー 公開終了

第十五回 アンドレ・ザ・ジャイアント 公開終了

第十六回 ブッダ 公開終了

第十七回 アドルフ・アイヒマン 公開終了

第十八回 江青 公開終了

第十九回 ベートーヴェン 公開終了

最終回


チェ・ゲバラ 前編
チェ・ゲバラ 後編

■著者プロフィール
森達也(もり・たつや)
映画監督、作家。1998年、テレビ・ディレクター時にドキュメンタリー映画『A』を公開。世界各国の国際映画祭に招待され、高い評価を得る。2001年、続編『A2』が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。著書に、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『A3』(集英社インターナショナル)、『下山事件』(新潮社)、『死刑』(朝日出版社)、『いのちの食べかた』(理論社)など。映画監督、執筆活動の他、テレビ、雑誌、講演、大学教授など幅広く活躍する。映像・活字両面で、いま最も注目を集める作家。
2011年7月15日、『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞!!


私たちの目の前に厳然と横たわる“死”。時の権力者も、屈強な男も、美しい女も、そこから決して逃れることはできない。ノンフィクション作家の森達也が、歴史人物の“死”から、それを取り巻く社会を俯瞰。石川五右衛門など誰もが知っている最期から、意外な終末を迎えた人物まで、古今東西さまざまな臨終劇を題材に、死刑制度、メディアの在り方、群衆心理、男女の深淵社会の本質に鋭く斬り込む現代日本論。


最終回 チェ・ゲバラ後編1







「ご気分はいかがですか」
 ロビーに降りたチェに、若い男が声をかけてきた。おそらく中津川なのだろう。背広姿で髪を七三に分けて、黒縁のメガネをかけている。その顔を見れば何かを思い出すかもしれないと思っていたのだが、中津川の容姿はチェにとって、典型的な日本人そのものだ。
「ありがとう。気分は大丈夫だ」
 そう言いながらチェは、中津川の顔から視線を逸らす。
「顔色があまり良くないようですが?」
「寝不足なのかもしれないな」
 そう言ってからチェは、「実は記憶がないのだ」と言った。こういうときは単刀直入に振る舞ったほうがいい。ゲリラ時代に得た教訓だ。
「記憶がない?」
 そう繰り返してから、中津川は「いつまではあるのですか」と訊いた。冷静な男だ。もしもラテンアメリカに生まれていたのなら、自分の片腕として有能な革命戦士になっていたかもしれない。
「最後の記憶はボリビアだ」
「つまり選挙の記憶はないということですか」
「そうだ」
「ならば圧倒的な得票で当選したことも?」
 沈痛な表情でうなずくチェに、中津川は「わかりました」と言ってから、手にしていたスーツケースの蓋を開けた。中には3つのベレー帽が並べられている。
「今日はどれにしますか」
 チェは無言で中津川の顔を見る。にこにこと微笑んでいる。どうやらジョークと思われたようだ。
「……ジョークではない。実際に記憶がないのだ」
「わかりました。とにかく急ぎましょう。時間がありません」
 微かに肩で息をついてから、チェはトランクの中に視線を送る。思わず手が伸びる。懐かしい。少佐の階級章である一つ星が付いたベレー帽は、チェ・ゲバラのシンボルであると同時に代名詞的存在でもある。でもボリビアのジャングルで失くしていた。手にするのは久しぶりだ。
「ひとつ質問していいですか」
 手にしたベレー帽を見つめるチェに、中津川が言った。
「何だ」
「以前から不思議だったんです。そもそもなぜゲバラさんは、ベレー帽を愛用されるのですか」
「ベレー帽はバスクの民族衣装だ。私の父親はバスクから来た移民の血を引いている。つまり私はバスク人でもある。だからベレーをかぶる」
 そう説明しながらベレー帽をかぶる。この感触によって記憶を取り戻すのでは、との期待もあった。
「お似合いです」
「ありがとう。やはり気分が落ち着く」
 そう答えると同時に、ロビーで歓声があがった。チェはその方向を見る。チェックアウトを終えたばかりらしい数人の日本人が、上気した表情で自分を見つめている。ゲバラよ。誰かが言う。ゲバラさんだ。誰かが呼応する。
 じっと彼らの様子を見つめながら、「申し訳ありません。ここで帽子を選んでいただいたことは失敗でした」と中津川が冷静な口調で言う。確かに失敗だった。数分後にはロビーにいた大勢の日本人に、チェは取り囲まれていた。サインをねだる年配の女性。携帯で何度も写真を撮る若い男性。握手を求める若い女性。頑張ってくださいとか期待していますなどと声をかけてくる背広姿の男たち。みなチェに出会えて嬉しそうだ。でも数が半端ではない。どんどん増えてくる。ホテルのスタッフたちは困惑したように事態を眺めている。このままでは不測の事故が起きるかもしれない。
「とにかく急ぎましょう。議事堂前では議員たちの初登院を撮るために、たくさんのメディアが待ち構えています」
 自分を見つめる大勢の人たちにグラシアス!と言ってから、チェは両手を合わせて合掌する。かつて来日する前、日本人はこのように挨拶すると思い込んでいた。もちろん実際にはそんな挨拶は存在しないとわかったけれど、これをやると喜ばれることも知っている。
 玄関前に停められていた黒塗りの高級車のリアシートに腰を下ろす。ホテルのラウンジのソファのように座り心地がいい。同時に車は発進する。振動はほとんどない。軍用車とはまったく違う。しばらく窓外の景色を見つめてから、「もう一度ベレー帽を見せてくれないか」と隣に座る中津川にチェは言った。膝の上に置いたスーツケースを中津川が開ける。右端の一つをチェは手にする。形はほぼ同じバスク・ベレーだが、階級章はついていない。黒の無地だ。チェはそのベレーをかぶり、一つ星をつけた黒のベレー帽をスーツケースに戻す。
「そちらにするのですか」
 少しだけ意外そうな口調で中津川が言う。
「……ここは日本だ。しかも私は国会議員になったのだから、階級章は必要ない」
 言ってからチェは前方を見つめる。記憶はいずれ戻るはずだ。そう思うことにした。今はしばらく、この状況に抗わずに身をゆだねてみよう。

 ボリビアのジャングルでチェが処刑された1967年以降、ボリビアの政治はそれまで以上に迷走し続けた。2年後の1969年には、独裁政治を敷いていたバリエントス大統領が、ヘリコプター墜落事故で死亡した。暗殺されたとの説もあるが真偽は不明だ。その後にゲバラ討伐時に政府軍の指揮官だったオバンド将軍がクーデターを起こして政権を掌握し、「革命的国民主義」を掲げた政権を発足させる。しかし翌年には軍内左派のホセ・トーレス将軍が政権を掌握してオバンドを追放し、その2年後には右派のウゴ・バンセル大佐によってまたもやクーデターが起きる。
 さらに1980年 には麻薬マフィアと裏で繋がっていたとされるガルシア・メサ将軍がクーデターを起こして権力中枢に居座るが、やはり2年後に失脚する。
 こうしてクーデターや政変が繰り返された時代は、トータルで18年間に及んでいる。当然ながら国土は荒廃して人々の生活は疲弊した。最終的にはシレス・スアソが政権を執って軍政時代は終わるが、同時期に中南米債務危機が始まり、ボリビアの国家財政は完全に破綻した。
 MAS(社会主義運動党)に所属するエボ・モラレスが、ボリビアでは初の先住民族出身の大統領となって左翼政権が誕生したのは2006年。公約どおりに天然ガス事業などを国有化し、さらには大農場主から接収した土地の所有権を先住民に引き渡すなど大胆な改革を実践したモラレス政権は、今のところは国民の支持を集めている。2009年のボリビア大統領選挙の際にも、現職のモラレスが過半数を超える得票で勝利した。
 つまりチェがジャングルで処刑されてからおよそ半世紀、彼と彼の母親、そして彼の妻たちの願いである「社会主義化」は、チェが命をささげたボリビアでは実現した。
 その先駆けとなったキューバは、今も社会主義国家であり続けている。現在の国家元首はフィデル・カストロの弟であるラウルだ。ボリビア以外にもベネズエラのチャベス政権を筆頭に、エクアドル、ニカラグアなど、ラテンアメリカには社会主義を志向する国は数多い。2009年にエルサルバドルでは、かつては共産ゲリラであったファラブンド・マルティ民族解放戦線が、武力ではなく選挙で政権を獲得した。
 ただし彼らのバックボーンだった旧ソ連はもはや存在しない。何よりもマルクス・レーニン主義は、歴史においてはほぼ使命を終えた。社会主義のシンボルである中国やキューバも、現在は市場原理を取り入れている。


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