第一章 四十七歳マンガ家走り出す。
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第一話

二〇〇六年の四月だった。

突然、ツレ(※1)が「走らなきゃいけない」と言い出した。
彼女は数年前から極真空手の道場に通っていて、夏の合宿にも毎年参加しているのだが、仕事の都合などで、これまで不参加だった十二kmの長距離走を初めてやることになったのだ。
夏の炎天下に長距離走。しかも道着で。さすがは天下の極真。鉄下駄じゃないだけ、まだましなのか。

「で、今から練習しておきたいんだけど、コースを考えてくれない?」

「だったら、そこの川の遊歩道を右。適当な橋のとこで引き返して、車通りの橋まで行って帰ってくる。それを繰り返せばいい」

言いながら彼女の顔を見ると、眼が虚ろになっていた。後半部分を聞いていないのはすぐに判った。彼女は恐るべき方向音痴。犬の散歩で道に迷い、犬に連れて帰ってもらうこと数知れず。近所の(二回曲がればいいだけの)お米屋さんに出かけ、そのまま戻って来れなかったことさえある〈道迷い〉の猛者なのだ。
親切な僕は腰を上げる。

「判ったよ。じゃスタート地点まで一緒に行こう」

「どうせなら、一緒に走って」

妻を愛する僕はスニーカーを履いた。

走りながら考える。最後に走ったのはいつだったろうか。マンガ家友達の野球のチームに入っていたことはある。ゴロを打ったあとの、一塁までが遠かったこと。走っても走ってもベースが近づかない。

気持ちは前に突進しているのだが、脚がまるで付いて来ない(アメリカ産のアニメに、脚だけ前に行き、上半身が置いて行かれる描写があるが、あれの逆だ)。そして最後には脚がもつれて転倒。アウトになったあげく、手を擦りむき、明日の仕事は大丈夫だろうかと心配するのが恒例だった。

スポーツジムに入会はしている。もちろん健康とダイエットのためだ。結婚前からは六kg、大学生の頃からは十二kgも増えた体重(そのほとんどが腹回りに集中)を、どうにかしたいと思ってだ。最初こそマシンで走ったりしたのだが、いくら走っても変わらない景色に、すぐに飽きが来て、バイクに転向。背もたれ付きのバイクだと本が読めることに気がつき、しばらくはそれに夢中になったが、老眼になってからは、それも面倒になり、最近では二週間に一回通う程度。当然、そんなことで、ダイエットになどなるなずがなく、体重計は見ないようにする日々だ。

そんな僕が走っている。季節は春。走ることは悪くはない。煙草は十五年以上前に止めたので、息苦しくはないし、散歩に毛が生えた程度のスピードなので、思ったほどには身体も疲れない。

ただ三分で飽きた。ひたすらに退屈で間が持たない。せめて音楽があれば、と思う。
キャンプ中のサッカー選手や野球選手が、ヘッドホンやイヤホンを付けて練習している映像をスポーツニュースなどでよく観るが、あのハードは何なんだろう?ウォークマン、携帯CDプレイヤー、そしてMD、新しいハードが出るたびに、スポーツジムで試してみたが、走ればすべて音が飛ぶ。
ああ、どこかに音飛びしないハードはないものか? お気に入りの音さえあれば、もう少し走れそうなのに。大好きなヘヴィメタルと一緒なら、スピードだって出せそうなのに(※2)。


※1)国樹由香。マンガ家。『この花はわたしです。(原作/喜国雅彦 全3巻)』(GXコミックス 小学館)『メフィストの漫画(喜国雅彦との共著)』(講談社)など。
現在『しばちゃん』(「あにスペ」イースト・プレス)連載中。http://www.kunikikuni.com/
※2)iPodはこの前年に買っていたが、運動で試してはいなかった。ジムではもっぱらバイク読書だったし、あんな繊細そうなものが、走っても大丈夫などとは思いもしなかった。

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