歴史ある地名が次々消えていく!――『番地の謎』著者が明かす「無形文化財」破壊の実態とは(前編)

 

 
  地図研究の第一人者である今尾恵介さんの近著『番地の謎』(光文社)は、番地や地名の歴史から仕組みまでを、長い年月をかけて膨大な資料を集め、詳しく解説した力作だ。本書が生まれた背景には、歴史ある地名がどんどんなくなっていることを危惧する著者の強い想いがあった。
 

 

 
 
ーー本の中で、「地名は無形文化財」と強調されていますね。

 

 地名の由来を解き明かすという本は数多く出ていますが、住居表示の歴史やシステムを詳しく解説した本はなかったので、以前からまとめてみたい気持ちが強かったのです。今までずいぶん本を出しましたが、いちばん時間をかけて資料を集めました。
 それは、何百年も続く地名が近年、あまりにも粗雑に扱われているという問題意識からです。

 

――具体的にはどういうことですか。

 

 その土地の歴史を表現してきた地名が各地でどんどんなくなり、変えられてしまっているのですね。理由を調べてみると、必ずぶち当たるのが昭和37年に施行された「住居表示法(住居表示に関する法律)」なんです。それまでは、「地番」が住居の表示に使われていました。地番というのは明治の地租改正条例で決められた「土地の財産番号」ですが、一つの地番で済んできた大きな畑が住宅地に細分化されたりすると、混乱してしまうケースが増えてきたんですね。それ以外にもいろいろ不都合があって、ヨーロッパのような分かりやすくシステマティックな住居表示にしようということになり、この法律ができたわけです。

 

――その住居表示法に問題があったと。

 

 諸悪の根源とまでは言いませんが(笑)、地名破壊の大きな原因になっています。例えば、東京の赤坂にしても、かつては赤坂氷川町、赤坂溜池町、赤坂檜町、赤坂霊南坂町などの味わい深い町名がたくさんありました。しかし現在は、赤坂一丁目から九丁目と、記号のように括られています。昔は町名だけで大体の場所がわかったのに、赤坂三丁目と言われても、タクシーの運転手さんもわかりません。人間の記憶は固有名詞に強く、数字に弱いという基本的なことを理解していなかったのでしょう。

 

――なぜそんなことになったのですか。

 

 例えば城下町由来の町では、通りを挟んだ両側が同じ町というのが当たり前でした。町と町の境界は、家の背中同士だったのです。しかし、住居表示法では街区表示で住所を決める必要がありました。どういうことかというと、一つのブロック単位で数字を振らなくてはならず、道路や鉄道などを町の境界にしてしまったのです。そうすると、従来の町が分断されてしまいます。さらに、町名が多いとわかりにくいという「錯覚」のもとに、歴史ある小さい町の名をどんどんなくし、現在あちこちの自治体にあるような「中央」とか「本町」という巨大な町にしてしまった。「中央●丁目●番●号」などと記号化してしまうのです。広すぎるので「中央北」なんていう一見矛盾した町名もありますよね。

 

――地番というのは、今はあまり馴染みがないですが。

 

 家や土地を買ったことのある人ならご存知でしょう。たとえば「世田谷区北沢三丁目31番●号」といえば住居表示ですが、その建物が建つ土地には「世田谷区北沢三丁目921-●番地」という地番(いわゆる資産の番号)があり、登記簿に登録されています。地番の文字をひっくり返した「番地」とは本来その土地にある建物などを特定するもので、昔は「●番屋敷」という表記もありました。一方、地番は土地を特定する符号なのです。

 

――地番はいつから始まったのですか。

 

 明治政府が明治5年に「壬申地券」を発行し、個人に土地の所有を認めて、それまでの年貢ではなくお金で課税するようになりました。しかしこの地券は江戸時代の検地帳をもとにしていたので、実態と齟齬があったりして不備が多く、翌明治6年に「地租改正条例」を施行したのです。このときに決められた地番が、原則として今に至っています。そして昭和の「住居表示法」までは、地番が原則として住居の表示の役割を担っていたのです。ただし、「住居表示法」は対象が市街化区域だけなので、郊外や農村部などは今も地番で表記しています。

 

――ちなみに、「番外地」というのは本当にあるのですか。

 

 よく聞かれます(笑)。ヒット曲でも有名な網走刑務所の住所は「網走市三眺官有無番地」です。実際は番外地ではなく「無番地」という表記が大多数ですね。特に国有地に多いのですが、国有地は課税の必要がなく、地番をつけなかったので無番地なのです。自衛隊の土地や、旧国鉄の所有地だった線路や駅も無番地が多いですね。

 番外地を探してみましたが、国有林の中にあると思われる北海道の支笏湖温泉郵便局が「千歳市支笏湖温泉番外地」という住所でした。北海道では殖民地区画の中で商店などが配置される中心地区だったようです。

 ちなみに山の山頂にも住所はあって、例えば八甲田山の山頂は「青森市大字荒川字荒川山無番地」となっています。

 

――八甲田山の住所にもある「大字」「字(小字)」、そして「郡」も近年あまり見なくなりましたね。

 

 それらはどうも「田舎臭い」と敬遠されるようです(笑)。でも、これも歴史ある地名なのです。

 この本では自治体の名前やその中にある大字、小字のことを多く扱っています。江戸時代からあった村(藩政村)は多くが数十人からせいぜい数百人単位で、教育や医療、土木など住民の暮らしの全般を扱う自治体としては小さすぎました。地租改正のときに村はずいぶん統廃合されたのですが、さらに明治21年に町村制が公布、翌年から施行されます。村を統合して現在の基礎自治体のルーツとなる新しい町や村(行政村)を作ったのです。
 江戸時代からの村名は新しい自治体の大字に、さらにそれより小さい地名は小字になったわけです。

 

――大字、小字に昔からの地名が残っているということですね。

 

 基本的にはそうですね。今も同じですが、新しい町や村の名前を決めるのは調整が大変で、旧村名を合成したり山の名前をつけるなどしました。平成の大合併でも「南アルプス市」とか出て来ましたよね。明治の町村制はその源流のようなものです。

 そして、「大字+番地」で郵便物が届くような住居の表示のところでは、小字を省略してしまうケースが増えているのです。

 

――郡も減っていますね。

 

 郡の由来は古代の律令制にまで遡ります。律令制が整備されたときに、武蔵国などの「国」の次にくる行政区画として郡が決められたのです。江戸時代まではそれほど変化はありませんでしたが、明治になると、郡の分割や統廃合が行われます。特に明治29年から30年にかけて大きな統廃合があり、例えば東京でも東多摩郡と南豊島郡が合併して豊多摩郡になりました。今の渋谷区、中野区、杉並区と新宿区の一部にあたります。ですから豊多摩というのはそれほど古い名前ではありません。

 実はこの合併前の明治22年に、それまで東京市街の外れだった麻布区の一部が南豊島郡に編入されることになったのです。この時、麻布の人たちは住所が「東京市」から「東京府南豊島郡」に変わるのを嫌がって反対の陳情までしています。明治期にすでに郡はネガティブなイメージを持たれていたのですね。

 さらに、平成11年から始まった平成大合併で郡は消滅が進みました。全国で約600郡あったうちの約3割が消滅しています。
 これはもう、文化の破壊ではないかと思うのです。
 (後編に続く)

今尾恵介(いまおけいすけ)
1959年、横浜市生まれ。地図研究家。音楽出版社勤務を経て、フリーハンド地図制作者およびフリーライターとして独立。イラストマップ作成や地図・鉄道関連の著作に携わる。現在、(一財)日本地図センター客員研究員、(一財)地図情報センター評議員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査。著書に『カラー版 東京凸凹地形散歩』(平凡社新書)、『絶景鉄道 地図の旅』(集英社新書)ほか多数。2017年に『番地の謎』(光文社知恵の森文庫 左写真)を上梓。