復興を世界に示す巨大プロジェクトを支えた人々の感動のドラマ

 

 

 多くの感動を呼んだ平昌オリンピックが2月25日の夜、17日間の大会に幕を閉じた。右足首を痛め、3ヶ月以上試合に出られないまま今大会に出場し、見事金メダルを獲得した男子フィギュアスケート・羽生結弦の勇姿に日本中が心打たれた。今大会では日本が13個のメダルを獲得して歴代最多メダル獲得数を更新し、日本スポーツ界への期待がさらに高まるのに対し、2年後に迫った東京オリンピックに関して、未だ実感できない人が多いのではないだろうか。

 2013年、東京での開催が決まったときには高揚と期待に満ちていた。しかし、エンブレムの盗作疑惑、国立競技場の建設費問題、そして築地市場の豊洲移転問題……。いくつもの問題が山積し、いつの間にか期待よりも「このままで本当に開催できるのか」という不安の声があがるようになってきた。

 

 しかし、過去のオリンピックを振り返ってみると、ほとんどの大会で工事の遅延や、会場整備など、さまざまな問題に直面してきたのも事実だ。1964年に開催された東京オリンピックも例外ではない。敗戦後、経済成長のまっただ中にあった日本にとって、オリンピックは国際的に存在を認められる絶好の機会。失敗は許されない国を挙げての一大イベントだった。

 東京オリンピックで活躍したのはアスリートだけではなかった。日本を代表するさまざまなプロフェッショナルが、東京オリンピックのために取り入れた新技術やシステムによって、その後の日本を大きく変えていくこととなった。ノンフィクション作家の野地秩嘉が15年におよぶ取材の末、上梓した『TOKYOオリンピック物語』(小学館文庫)には、そんな大舞台を陰で支えた、裏方たちの軌跡が濃厚に記されている。

 

 オリンピックを撮影した「記録映画」が存在していることをご存じだろうか。国際オリンピック委員会の取り決めで毎回ごとに製作することが決められているのだが、近年の作品はほとんど公開されていないため知らない人も多いだろう。1960年のローマオリンピックまでは、各競技の映像を記録するだけの「記録映画」だったものを芸術の域に昇華させたのが、1965年公開映画『東京オリンピック』の監督を務めた市川崑だった。

 プロジェクトの発足当初は黒澤明が監督を務める予定だったが、予算の問題から監督を降りる。そこで監督探しに難航していたところ、「市川崑がいい」とアドバイスしたのが、東京大会のシンボルマークと公式ポスターを作った亀倉雄策だった。だが、それまでの「記録映画」は公開されても観客が少なく、黒字を生むのは難しかった。そんな状況下でも、市川は「引き受けた以上最後までやる」と決めていた。

 

 「クロさんが断った経緯もあり、やらない方がいいと言ってきた人は何人もいました。しかし、私が監督を引き受けてもいいなと思ったのは、亀倉さんが作ったポスターを見たからです。あれを見て、ああ、オリンピックってのはこんなに美しく表現できるんだなと思いました。だから、記録映画も美しく撮ればいい。それが自分の役割だと感じたのです」(本文より)

 

 黒澤明が出した映画製作の見積もりが5億5000万円。しかし、前回大会の記録映画にかかった予算はその半額以下だった。実際、市川崑は2億7000万円で製作。その後、完成した映画は1960万人を動員する大ヒット映画となった。日本公開の映画史上、『千と千尋の神隠し』、『アナと雪の女王』に次ぐ堂々の観客動員数3位を記録している。

 

 市川崑のほかにも、東京大会を支えた人々の活躍が描かれる本書。

 会場を超えて競技の結果が共有できる「リアルタイムシステム」を導入したエンジニア。1万人分の食事を提供するため、冷凍食品を飛躍的に進化させた料理長。オリンピックの警備を担当した初の民間警備会社。言語の壁を越え、一目見て「非常口」や「トイレ」だと理解できるようなピクトグラム(絵文字)を開発したグラフィックデザイナー。そして公式ポスター4枚を作成し、それまでのオリンピックには無かったシンボルマークを生み出した亀倉雄策。それぞれのプロが戦後復興の旗印となる巨大プロジェクトと対峙し、日本のシステムを変革させていった。

 

 開催国の国民性が表れるオリンピックは、日本人の誠実で謙虚な国民性から、海外からの観光客を「おもてなし」するのに最適だ。今抱えている問題も1964年同様、最新技術や画期的なシステムで解決されると期待したい。

 日本を改革してきた技術者たちの軌跡は、2年後に迫った東京オリンピックを成功に導くヒントにあふれている。

 

 

 

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書名  : TOKYOオリンピック物語

著者  : 野地秩嘉

定価  : 本体657円+税

発売日 : 2013/10/08

発行  : 小学館

 

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