自著を語る2
村上しいこ
『死にたい、ですか』
2018.9

 

死ねなかった私へ

 今思えばこの作品を書こうと考え始めたのは、二〇〇六年十一月二十三日だったかもしれない。二十二日、私は「ひろすけ童話賞」をいただくために、山形県の高畠町にいた。ひろすけ童話賞は幼年童話では最高位の賞であり私は喜びの頂点にいた。その同じ頃、同じ高畠町で自ら命を絶った一人の少女がいたことを知ったのは、翌二十三日だった。少女の死を伝えるニュースは私にとってもショックで、それ以来ひろすけ童話賞は、彼女、美穂さんとセットになって浮かぶ。
 それまで地域や小・中学校での講演会で、私はいつも言ってきた。「きっとみんな幸せになれる。幸せになる権利がある。幸せになる力を持っている」と。しかし現実にこういう事件を聞くたびやりきれない無力感にさいなまれる。そしてこの作品を書き終えたとき、この作品は死ぬことができなかった自分自身に向けて書かれたものだとようやく気づいたのだ。
 私は子どもの頃からずっと虐待を受けてきた。暴力によるものはもちろん、言葉や嫌がらせ。木の棒で殴られ頭に傷を負い、教室にいるときも、頭から赤い汗が流れた。クラスメイトからは気味悪がられ、みんな逃げた。そしていじめ。いじめる人の中に先生の顔もあった。しかし私は死ねなかった。そしてある日私は親に懇願した。「殺してくれ」と。しかしそんな希望も許されなかった。「おまえは家族の奴隷だ。殺すわけにはいかない」と。
 そして私は生きてきて、今は思う。死ななくてよかった、と。
 だから私にとって「文学」とは、どうすれば人は幸せになれるだろうか、その実験の場でもある。そして今回そのモチーフとさせていただいたのが自死遺族である。具体的なモデルはないが、どういう死にも共通していえるのが、怒りの持っていきようのないやるせなさだ。ずっと不安定な感情をどうすることもできず遺族たちは、自分で自分を励ますしかない。死んだ理由がたとえ理屈でわかったとしても、やはり行き着くところは「どうして死んじゃったんだろう」という場所なのだ。ましてや数行の遺書をSNSに残し自死を選ぶ若い命に、親は傷つきその傷ついた心で行政の壁と戦わなければならない。
 誰もが一度は電車のホームでこういうアナウンスを聞いたことがあるだろう。「ただいま人身事故のため、列車が遅れています」と。そのときどれだけの人が誰かの痛ましい死を想像できるのだろうか。「もおー。何やってくれてんねん」。職場や学校に急ぐ人の中からは、当然そんな声も聞こえてきそうだ。本来ならば、目を閉じ祈りを捧げてもいいくらいなのだが、誰も「悼む人」にはなれない。今の社会では当たり前のことかもしれない。
 この作品のもうひとつの核に裁判がある。正直、観れば観るほど裁判というものが奇妙なショーに思えてくる。そういえば裁判を傍聴して思ったのだが、小・中学生の授業の一環として裁判を傍聴してもらったらどうだろうか。手錠でつながれ入廷する被告人を実際に観るだけでも道徳の教科書一冊分よりも価値があると思うのだが。
 反省していると言いながら、言い訳を続ける被告人。弁護士の正義と困惑。隠されたストーリー。それでいて法廷が最後に訴えるのは「良心」という、今の社会でもっとも薄っぺらになってしまった文化遺産のような言葉しかないのだ。
 この作品がどれだけ説得力を持つか、私自身被告人になった気分で待つことにしたい。そして読者の声には真摯に耳を傾けたいと思う。

 

 


『死にたい、ですか』
村上しいこ/著 
定価:本体1,500円+税
小学館・刊
四六判 280ページ
大好評発売中
ISBN 978-4-09-386488-6

 
 
 

 
 
 
 

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