自著を語る1
仙川 環
『鬼嵐』
2018.11

 

二つの恐怖

 二〇一六年のある日、ふと思った。そろそろ前職の記者より、作家としての活動歴が長くなるのではないだろうか。
 早速、頭の中で計算してみた。謎の感染症をめぐる殺人事件を描いた『感染』でデビューしたのは二〇〇二年のことだ。四年後に、十三年間勤めた新聞社を辞めた。それから十三年近く()つ。まさに、作家歴が記者歴を超えようとしているところだった。
 そんな折に、新しい連載が決まった。いい機会なので、初心に戻って書こうと思った。そのためには、当時何を考えていたのか思い出す必要があると考え、引っ越しの時以外、本棚から取り出すこともなかった『感染』を手に取った。
 読み始めて驚いた。登場人物の名前は、主人公と彼女の夫以外、誰一人覚えておらず、事件の展開もすっかり忘れていたのだ。言葉の選び方や読点の打ち方の癖も今とは違っており、もはや自分が書いた小説とは思えなかった。さらにいえば、登場人物がやたらと煙草(タバコ)を吸っている。あれから長い時間が経ち、時代が変わったのを痛感した。
 それでも、当時何を考えていたのかは、鮮明に思い出すことができた。あの頃、私は二つの恐怖を書こうとしていた。一つは、未知の感染症、もう一つは最愛の人の裏切りである。
 新作でも、自分が怖いと思うことを二つ書こうと思った。一つは、デビュー作と同様、未知の感染症がいいだろう。感染症の名前は、いかにも恐ろしそうな「鬼嵐」がいい。そこまではすぐに決まったのだが、問題はもう一つの恐怖を何にするかだった。裏切りは今でも怖いが、五十近くにもなると、「ま、そういうこともあるよね」と思ったりもするわけで、当時ほど恐ろしいとは感じない。自分や身内、親しい人の死は、今も昔も怖いが、感染症への恐怖とかぶってしまう。ほかに何が怖いのか。
 ヒントはある夜、コンビニエンスストアでみつかった。会計の順番を待っていると、男性の怒声が聞こえてきた。レジの女性店員に注文が通じず、(いら)()っているようだ。店員の胸元のネームプレートを見て、「ああ」と思った。名前がカタカナだったのだ。
 女性店員が半べそをかいていたので、釣銭を受け取る際、「ありがとう」と明るく言いながら笑いかけた。笑顔が返ってきたので、ほっとしたのだが、その後、不安になった。男性客の態度に(あき)れ、腹を立てた私自身は、この街でうまく暮らせているだろうか。
 都の統計によると、新宿区は都内で外国人比率が最も高い自治体だ。私が暮らす街でも、すれ違うカップルや友人同士の何割かは外国語を話している。中華やエスニック料理の店に入ると、店の人も客も私のほかは全員外国人だったりする。マンションのごみ置き場の表示も、一昨年あたりから英語が併記されるようになった。時代は変わったのだ。
 自分と違うバックグラウンドを持つ人に対し、偏見を持ちたくないと思っている。言葉が拙い店員を怒鳴りつけるほど狭量でもないつもりだ。でも、自分では気づいていない偏見や狭量さが、私の中にもきっと潜んでいる。それは、誰かを傷つけているかもしれない。そう思うと、怖かった。だからこの話を書こうと思った。
 鬼嵐の犠牲者が最初に発生するのは、多くの外国人労働者が暮らす架空の田舎町だ。住民の一部は、彼らを快く思っていない。主人公である医師の及川夏(おいかわなつ)()が、そこで感じる怖さや苦さは、私自身のものだ。書き終わったときに思った。怖さや苦さに打ち勝つには、夏未も私も自身の偏見、狭量さを一つ一つ潰していくほかない。

 

 

『鬼嵐』
仙川環/著 
定価:本体1,500円+税
小学館・刊
四六判 272ページ
大好評発売中
ISBN 978-4-09-386518-0

 

 
 
 

 
 
 
 

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