大学図書館に眠っていた拓本の謎

 歴史上の人物の評価は、時代によって変わりうる、ということを、前回述べた。

 そのことを実感した私の調査経験について、お話したい。


 私が山形大学の教員をしていた2012年夏のことである。山形大学の小白川図書館の書庫で、偶然にあるものを見つけた。大きな石碑の拓本だった。拓本とは、石碑に紙を当て、墨を使ってそこに刻んである文字・模様をうつし取ったものをいう。石碑は、石の表面を彫って文字を作り出すので、拓本をとると、文字の部分が白く抜けて写し出されることになる。


 正確にいえば、このときに私が図書館で見つけた拓本は、2点だった。一つは、4世紀末から5世紀初めにかけて活躍した高句麗の広開土王の石碑の拓本である。現在も中国の吉林省集安市に存在し、現物の碑は世界遺産に登録されている。6mもある大きな石碑で、当然、拓本もそれと同じ大きさである。この拓本をめぐっても私はさまざまな調査体験をしたのだが、それについてはいずれ別の機会に述べる。


 もう一つは、「物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)之碑」という石碑の拓本である。こちらの拓本も、2m50cmあまりの大きな拓本だった。


 これらの拓本がどうして山形大学の図書館に眠っていたのか?


 大学の関係者にいろいろと聞いてみたが、その理由はまったくわからなかった。どういう経緯かわからないが、これらの拓本がずっと前から、図書館の奥深くに眠っていたのである。もちろん、この二つの拓本は別々の経緯でもたらされたものであろう。


 広開土王碑というのは教科書にも出てくる有名な石碑なのですぐにわかったが、一方の「物部守屋大連之碑」とは、初めて聞く石碑である。


 ただ、日本古代史を専攻している私にとってはもちろんだが、古代史を専攻していない人にとっても、「物部守屋」という人名は、聞いたことがあるだろう。教科書にも出てくる有名な古代の豪族である。


 朝鮮半島の百済から日本列島に仏教が伝来したのが6世紀半ばといわれている。このとき、ヤマト王権の有力豪族の間で、仏教を受け入れるべきかどうかについて意見が対立した。仏教を受け入れるべきとする蘇我稲目(いなめ)と、仏教を排斥しようとする物部尾輿(おこし)によるいわゆる「崇仏論争」がそれである。外来宗教である仏教は、それまでの伝統的な価値観を脅かす恐れがあるとして、保守的な豪族たちがその受け入れに反対していたのである。その筆頭が、有力豪族の物部氏であった。


 この当時、物部氏は「大連(おおむらじ)」、蘇我氏は「大臣(おおおみ)」として、それぞれヤマト王権の中枢をになう豪族であった。崇仏論争は、一方で、ヤマト王権の主導権を握るための政治的対立であったともいえる。





 この対立は、それぞれの子である蘇我馬子と物部守屋の代まで続き、最終的には、蘇我馬子が厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)など多くの豪族を味方につけて物部守屋を滅ぼすことで決着した。そして勝利した蘇我馬子は、初めての本格的な仏教寺院である飛鳥寺(あすかでら)を、奈良県飛鳥の地に建立したのである。


 以上の歴史は、奈良時代の720年に編纂された公式の歴史書である『日本書紀』に記録されている。


 『日本書紀』によれば、物部守屋は、蘇我馬子との争いに敗れた豪族として描かれており、いわば敗者である。蘇我氏は、その後の政治に華々しく登場するが、それにくらべると物部守屋は、いたって地味なのである。