「物部守屋大連之碑」が語る内容とは?

 山形大学の小白川図書館の書庫で眠っていた「物部守屋大連之碑」と題する石碑の拓本を見つけてしまった私は、この石碑がどのようなものであるのかに興味を持ち、調べることにした。


 明治26年(1893)に山形で作られた「物部守屋大連之碑」という石碑の碑文の内容は、次のようなものだった。原文は古文体だが、現代語訳してみよう。




 物部弓削(ゆげの)守屋公は、尾輿(おこし)の子である。父に継いで大連となった。敏達(びたつ)天皇の時代、仏法が世に行われるようになると、蘇我馬子大臣を筆頭にこれを崇信した。守屋公はこれをよろこばず、つとめて規諫(きかん)<「戒め」の意>した。時に人民は、病気で死ぬものが多く、守屋公はこれを仏法を唱えたことによると考え、仏教を禁絶しようとして、塔宇を破壊し、仏像を焼き、残りを難波の堀江に棄てた。また三人の尼を海石榴市(つばいち)においてむち打ちの刑にした。


 蘇我馬子はこのときから怨みを持つようになった。その後もなお仏に帰依し、法師を宮中に入れた。群臣はみな守屋公を攻めようとした。守屋公は阿都(おと)の別業(なりどころ)<別荘>に退去し、兵を集めて自らを守ろうとした。馬子はますますその仲間を集め、遂に泊瀬部(はつせべ)皇子・竹田皇子・豊聡耳(とよさとみみ)皇子・難波皇子・春日皇子の諸皇子及び臣たちをひきいて、攻撃をするために渋河の家に至った。守屋公は稲城(いなき)<稲で積んで矢を防いだ柵>を築いて防戦し、さらに樹に登って雨のごとくに矢を射た。諸皇子の軍は恐れおののいて退いてしまったが、豊聡耳皇子は、馬子と共に守屋公を攻撃して、守屋公を矢で射て殺してしまった。


 今、名分の学が開きゆくこの大御代(おおみよ)<天皇が治められる世>に、守屋公の忠憤義慨が世に明らかになってゆくにつれて、山形県の有志の者が、同村の千歳山に祭場を設け、一千首余りの国歌を備え、守屋公の忠勇遺烈を顕彰するものである。すなわちここに大碑石を建て、守屋公の正義を後世に永く伝えて、邪道に迷い、大義を誤ることがないように、世に示すのである。


 明治二十六年十一月


    陸軍大将議定官大勲位有栖川熾仁親王篆額

    枢密院副議長従二位勲一等伯爵東久世通禧撰并書




 この碑文の前半部分にあたる、物部守屋の事蹟のもとになっているのは、奈良時代の720年に成立した公式の歴史書『日本書紀』の敏達天皇紀の記事である。碑文は、敏達天皇紀の記事を、ほぼそのまま引き写しているといってよい。


 『日本書紀』に描かれている物部守屋は、実に悪逆非道である。「仏教を禁絶しようとして、塔宇を破壊し、仏像を焼き、残りを難波の堀江に棄てた。また三人の尼を海石榴市においてむち打ちの刑にした」という部分は、物部守屋がかなり暴力的に仏教を排除している様子を描いている。続いて、蘇我馬子との戦いの場面では、「樹に登って雨のごとく矢を射た」という表現があり、このあたりの描写もやや暴力的である。そして最終的には、蘇我馬子と豊聡耳皇子(聖徳太子)によって、物部守屋は殺されてしまうのである。


 なぜ、『日本書紀』において物部守屋は、低い評価を与えられてしまったのだろうか。それは、古代の日本において、仏教が先進的な文物を伝える役割を果たしていたためである。先進的な文物を排斥する守屋の評価が低いのは、ある意味で当然なのである。


 だがこの碑文の趣意はまったく違う。この碑文の最後には、「守屋公の忠憤義慨」が次第に明らかになっていったこともあり、山形県の有志の者が、彼の「忠勇遺烈」を顕彰するために、この碑を建てたとある。「守屋公の正義を後世に永く伝えて、邪道に迷い、大義を誤ることがないように」、この石碑を建てて世に示すのだと結んでいる。


物部守屋大連之碑拓本(山形大学小白川図書館所蔵)


 前半部分、すなわち物部守屋の事蹟の部分だけ読むと、守屋はなんとひどいことをする人だと思ってしまう。それは当然である。なぜならこの碑文のもとになった『日本書紀』に、そう書いてあるからである。『日本書紀』は、物部守屋のことを、仏教を暴力的に排斥した悪い人物として描いている。そして碑文はそのニュアンスをも、そのまま引き写している。


 それにもかかわらず後半では、物部守屋を忠義に厚い人物として顕彰しているのである。だが、具体的にどのような「忠憤義慨」「忠勇遺烈」なのかは、この碑文からは読み取れない。この碑文が、前半と後半でなんとなくちぐはぐな感じがするのは、物部守屋を悪人として評価している『日本書紀』の記事をほぼそのまま引用しておきながら、後半で唐突に物部守屋を顕彰していることに原因があるように思う。


 いずれにしても、『日本書紀』には仏教を暴力的に排斥するとして描かれ、最後は崇仏派によって滅ぼされてしまったはずの物部守屋は、明治時代以降、忠義に厚い人物としてその評価を一変させてしまうのである。これはいったいなぜなのか。