「物部守屋大連之碑」を建立した者たち

 山形大学の小白川図書館の書庫で見つかった「物部守屋大連之碑」やその拓本をめぐって調べていくうちに、さらに興味深い事実がいくつか浮かび上がってきた。


 第一に、これは後に石碑じたいを調査してわかったことなのだが、石碑の裏面にも文字が刻まれていて、そこには、「明治二十九年十二月二十三日建之」という建立年月日と、この石碑を建てた13名の発起人の住所と名前、さらにはこの石碑の文字を彫った彫刻師3名の名前が記されていたことである。


 これによると、13名の発起人は、山形県の村山地方(現在の山形市を中心とする地域)から集まった人たち、しかも名士といわれる人たちであることがわかった。この石碑は、地元の名士たちにより、建てられたものであることが、明確になった。


 また、建立年月日の明治29年(1896)12月23日という日付は、碑文にみえる「明治26年11月」という日付から、約3年後である。つまり、この石碑の碑文が作られてから3年後に、石碑がようやく建立されたことを意味している。


 石碑の裏面には、「彫刻師」として、この石碑を刻んだ職人の名前が3名記されている。


「物部守屋大連之碑」裏面


この中に、船越吉五郎という人物がいる。船越吉五郎は、文久3年(1863)に地元の南村山郡滝山村上桜田に生まれ、大正14年(1925)四月に63歳で他界した。東京の名石工・宮亀年(みやかめとし)をして名工と言わしめた職人であった(市村幸夫「明治の字彫り職人-宮亀年を中心にして-」『山形民俗』14、2000年)。この石碑が非常に高い技術で作られているのは、名工・船越吉五郎の手によるところが大きいのであろう。



 第二の興味深い事実とは、軸装されたこの石碑の拓本の裏面に、2通の公文書の写しが添付されていたことである。



 1通は、当時の宮内省内事課長が、明治29年12月26日付で山形県知事に宛てた公文書で、その内容は、現代語訳すると、次のようなものである。




山形県東村山郡楯山村の有志である総代・佐藤恭順ほか3名より、大連物部守屋公の頒徳碑の石摺(拓本)を献納したいと願い出た件について、今月八日に宮内大臣に上申したところ、許可をいただき、かつ拓本の現品も届いたので、御前(天皇)に差し上げたという旨を、県を通じて本人たちに通達してほしい。




 これによると、「物部守屋大連之碑」の拓本が、当時の宮内省に献納され、最終的には明治天皇の御前に供せられたようである。その日付に注目すると、許可が下りた明治29年12月8日よりも前に、拓本が宮内省に献納されて、ほどなくして許可が下りたものと思われる。そしてそのことを、12月26日付の公文書で山形県知事に伝えたのである。


 もう1通は、山形県知事が、明治30年(1897)1月7日付で当時の東村山郡役所に宛てた公文書で、その内容は、現代語訳すると、次のようなものである。




東村山郡楯山村の有志である総代・佐藤恭順ほか3名より昨29年11月27日付を以て、大連物部守屋公の頒徳碑の石摺(拓本)の献納を願い出た件について、宮内大臣に上申したところ、許可をいただき、かつ現品は御前(天皇)へ差し上げたとの知らせが届いたので、その旨、本人たちに通達してほしい。




 これは、さきの宮内庁内事課長から山形県知事に宛てた公文書をうけて、今度は山形県知事が管内の東村山郡役所に宛てて出した公文書である。これにより、宮内省に献納した拓本が天皇に供せられたことが、宮内省→山形県→東村山郡というルートで、石碑を建立した有志たちまで伝わったことがわかる。なおこの公文書によると、有志たちが宮内省に拓本を献納した碑は、明治29年11月27日となっている。


 2通の公文書に出てくる「佐藤恭順」という人は、石碑の裏面に刻まれた発起人13人のうちの、筆頭にあげられている人物である。


 この2通の公文書の写しは、石碑を建立した有志たちが、その拓本を宮内省に献納したという事実を示しているが、興味深いのはそれだけではなく、石碑の建立までの過程が、あるていど復元できるということである。