もう一つの「拓本」の謎

 明治時代の石碑である「物部守屋大連之碑」の発見を機に、近代において歴史上の人物がどのように評価されていたか、そして、石碑と拓本の関係がどのようなものであったか、といったことが、次々と明らかになってきた。


 さらにこの石碑の拓本を調べていく過程で、この拓本とまったく同じものが、別の場所に存在していることがわかった。京都大学附属図書館に「物部守屋大連之碑」拓本が所蔵されていることがわかったのである。


 実際にこの拓本を調査してみると、紙の一枚の規格といい、貼りつぎ方といい、墨の使い方といい、山形大学小白川図書館所蔵のそれと酷似していることがわかった。おそらくこの二つの拓本は、同時に作られたものであろう。


 これにより、前述の仮説がたしかなものとなった。すなわち、複数の関係者に献納するために、石碑を現地に建てる前にあらかじめ(石碑を寝かせた状態で)必要な枚数の拓本を作成しておいたことが、これにより実証されたのである。現存する拓本はいまのところ2点だけだが、本来は献納用にさらに多くの拓本が作成されていたと推定される。


 それにしても、なぜ山形に所在する石碑の拓本が、京都大学附属図書館に所蔵されているのだろう? どのような経緯で、この拓本は京都の地にもたらされたのか?


 実はこの拓本はもともと、京都の尊攘堂の収蔵品だったもので、それが後に京都大学附属図書館に移管されたのである。


 尊攘堂とは、明治20年(1887)に、長州出身の品川弥二郎(1843〜1900)が師・吉田松陰の遺志を継いで京都に立てたもので、幕末・維新の勤王の志士の霊を祀り、関連資料・遺墨・遺品などを収集し、祭典を営んだという施設である。品川の死去した後は、京都帝国大学への寄贈・移管が決定され、附属図書館が管理するようになった。収集蔵品は、はじめ掛物・巻物・帖・写真・額面・遺品・屏風など計1249点だったが、昭和15年(1940)には1349点となっている(『国史大辞典』による)。この収蔵品の中に、「物部守屋大連之碑」も含まれていたというわけである。



尊攘堂外観(写真提供:京都大学文化財総合センター)


 では、どういう経緯でこの拓本が尊攘堂にもたらされたのだろうか? 残念ながらその経緯がわかる史料は残っていない。しかしながら、尊攘堂がこの拓本を所蔵していることは、考えてみればさほど不思議なことではない。


 それは、「物部守屋大連之碑」の篆額を揮毫した有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)も、碑文を作成した東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)も、ともに長州藩と深いつながりのある人物だったからである。そればかりではなく、尊攘堂を創設した品川弥二郎とも個人的なつながりがあったのである。有栖川熾仁親王の日記を読むと、品川弥二郎が親王に石碑の篆額の揮毫を依頼している記事がいくつか見られる。想像をたくましくすれば、たとえば有栖川熾仁親王に献納された拓本が、品川弥二郎との個人的な関係で、尊攘堂に収蔵された可能性は考えられないだろうか。


  いずれにしてもおもしろいのは、古代豪族・物部守屋を顕彰する石碑が、縁もゆかりもない山形の地に作られ、そしてその拓本が、今度は石碑の所在する山形から遠く離れた京都にもたらされたという事実である。そこには、人と人とのつながりを介して、情報や思想が猛烈なスピードで共有されていく過程を見てとることができるのではないかと思う。