伝説か真実か?歴史が語る聖徳太子の人物像

 前回まで4回にわたって、「物部守屋大連之碑」という明治時代の石碑をとりあげ、歴史上の人物の評価が時代の要請によって変わっていく様子を見てきた。


 この石碑で顕彰されたのは、崇仏論争で有名な古代豪族・物部守屋であったが、実は彼だけではなく、彼を取り巻く人物、そしてその後に起こる歴史的事件もまた、時代によってその評価を大きく変えてきた。余談になるが、今回はそんなお話をしよう。


 物部守屋を滅亡に追いやった蘇我馬子や厩戸(うまやど)皇子も、教科書に載るほどの有名な人物である。


 厩戸皇子<574〜622>は、「聖徳太子」として知られる人物である。用明天皇の皇子で、叔母にあたる推古天皇の皇太子にして摂政となり、冠位十二階・憲法十七条の制定などにより内政を整備し、遣隋使を派遣して進んだ大陸文化の導入にもつとめた。また、朝鮮半島の百済から伝来した仏教に帰依し、法隆寺や四天王寺を建立し、さらに、法華経・維摩(ゆいま)経・勝鬘(しょうまん)経の注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著した。


 ……とここまでは、720年に成立した日本最古の歴史書『日本書紀』に書かれていることであり、歴史の教科書にも載っていることである。


 このイメージは近代以降も引き継がれた。古代国家の基礎を築き、仏教信仰に深い理解のあった偉大な政治家・思想家として定着し、昭和5年(1930)以降、紙幣の肖像画として最も多く登場するなど、「偉人」としてその人物像は再生産され続けたのである。


「上宮太子画像(唐本御影)」(東京大学史料編纂所所蔵模写)


 こうした「万能の政治家」という聖徳太子のイメージは、はたして史実なのだろうか?さきに述べたように、聖徳太子の功績は、彼の死後、100年あまりたって編纂された歴史書『日本書紀』で語られていることである。聖徳太子を理想の皇太子として、さまざまな業績が、聖徳太子一人に仮託された可能性があるのではないか、と考える研究者もいる。

 厩戸皇子(厩戸王)は後世になっていくつもの名で呼ばれた。「聖徳太子」もその一つである。

ほかに「上宮太子」「豊聡耳命(とよとみみのみこと)」「豊聡八耳命(とよやつみみのみこと)」「上宮之厩戸豊聡耳命(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」「聖王」「法王」「法大王」「法王大王」などがある。


 さらに、古代から中世にかけてさまざまな伝記が作られ、そこにはおよそ常識では考えられないような超人的な才能が語られている。そのいくつかを見てみよう。




・聖徳太子はもともと中国の高僧である慧思(えし)<515〜577>なる人物の生まれ変わりである。

・太子が誕生するとき、母は金色の僧(救世菩薩)が胎内に入る夢を見、やがて懐妊。

・出産の時、厩の戸に当たると労せずして太子が生まれた。

・生まれるとすぐにものを言った。

・2歳の時、2月15日の釈迦の命日に東方に向かって「南無仏」と唱えて合掌した。

・10歳の時、蝦夷の反乱を武力を使わずに諭し、反乱を鎮めた。

・成人になると、一度に10人(もしくは8人)の訴えを聞いて誤りなく理解した。

・未来を予知することができた。

・甲斐国から献上された「甲斐の黒駒」に乗って空を飛び、富士山にも登った。




 このように厩戸皇子には、時代とともにさまざまな人物像が付加され、何が実像で、何が虚像なのか、見きわめることが難しくなっているのである。

そういうこともあって、最近では虚像と実像を見きわめる必要があるという意図から、「聖徳太子」という呼び名ではなく、本来の名前である厩戸皇子(厩戸王)が使われるようになってきた。

 政治についても、厩戸皇子があらゆる政策を一人で成し遂げたのではなく、有力豪族であった蘇我馬子と協力して進めていったとする見方が強まってきている。

 のちに蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が大化改新のクーデターで滅ぼされたこともあって、なんとなく蘇我氏は悪役のイメージがあるかも知れないが、最近の研究では、蘇我氏の政治的手腕が評価されるようになってきているのだ。