天長7年(830)の大地震。その時出羽国で何が起こったのか?

 「貞観(じょうがん)地震」は、東日本大震災とよく似た被害をもたらした地震として知られるようになったが、実は東北地方では、この時期、このほかにも大きな地震を経験している。ここでは、陸奥(むつ)国に隣接する出羽(でわ)国(秋田県と山形県)で起こった2つの地震についてみていくことにしよう。


 出羽国では、天長7年(830)と嘉祥3年(850)に大地震が起こっている。とくに天長7年の大地震のさいには、実に詳細で、かつ緊迫した報告が出羽国司から朝廷に提出されている。少し長くなるが、『類聚(るいじゅう)国史』天長7年正月28日の記事を現代語に直してみよう。

 出羽国から早馬による報告があった。「秋田城に駐在する出羽国次官の藤原朝臣行則(ゆきのり)が今月3日の酉の刻(午後5時から7時)に出した報告によると、3日の辰の刻(午前7時から9時)に大地が震動して、雷のような音がした。そのためあっという間に秋田城の城郭や官舎、四天王寺の丈六の仏像や堂舎がすべて倒壊した。城内にある百姓の家々も倒壊し、そのために圧死した者15人、負傷した者も100人あまりを数えた。このような大地震はいまだかつて聞いたことがない。

 大地も地割れし、その規模が30丈(約90メートル)、20丈(約60メートル)におよぶところもあり、地割れのないところがない状態である。

 秋田城の近くには大河があり、秋田河という。河の水もかれてしまい、流れも溝のように細くなってしまった。おそらくは河の底も地割れして水が海に流れてしまったためだと思うが、官民ともうろたえてしまい調査することができない。添河(そえがわ)・覇別河(はべつがわ)は、両岸が崩れて河道をふさいでしまった。そのため河が氾濫して近辺の集落をおそうことを恐れた百姓らは、争って高台に登るありさまである。

 本来ならば被害の詳細をまとめて報告するべきであるが、余震が一時(約2時間)のうちに7,8回も続く、風雪もあって現在までやまず、今後いかなる被害が出るかわからない。官舎も雪に埋まってしまい、すべてを区別して記録することもできない。

 辺要にあっては城柵こそがその要である。その城柵が倒壊してしまっては非常事態に対処できない。そこで出羽国の諸郡から援兵を動員して、現在いる兵士に加えて非常時にそなえるべきである。自分らは十分に協議していないが、事態はわれわれが考える域を超えている。そこで取り急ぎ援兵500人を派遣し、また法に従って早馬で報告する次第である。ただし、被害の詳細については記録を作成して今後提出したい。

 この記録を注意深く読むと、先にみた貞観地震の際の記録と同じで、秋田城とその周辺についてのみの被害が報告されていることがわかる。秋田城とは、出羽国に設置された城柵で、かつ出羽国の行政をおこなった役所でもあった。ここに常駐していた役人が、秋田城の被害状況について報告したのである。予想を超える災害に役人も民衆もうろたえている様子がうかがえる。


秋田城跡(写真は復原された東門。国指定史跡。秋田県観光課)


 この地震が起こってから3カ月後の4月25日に、淳和(じゅんな)天皇は次のような詔を出した。

 聞くところによれば、出羽国で地震が起きて災害をもたらし、山河は変容し、城は倒壊して、人的被害を生じたという。なんの罪もない民が突然横死してしまったのは、政治を行う者として誠に欠けるところがあったといわねばならない。そこで特使を出羽国に派遣して慰問することにする。生業に励む民のなかで地震の被害にあった者については、特使と国司が協議して今年の租・調を免除し、また公民と蝦夷(えみし)とを問わず国の米倉を開いて食糧などを支給し、住居の再建にも援助を与えて、生業を失うことのないようにせよ。圧死した者は早急に埋葬せよ。できるだけ広くねぎらい恵むことにより、朕の思いをかなえよ。

 ここでは、特使を派遣し、特使と国司が協議をして、今年の租・調(税)を免除することや、公民と蝦夷とを問わず食糧を支給することなどが定められているが、これは先の陸奥国貞観地震の時の非常措置ともまったく同じであり、一定の方針の下で、大地震に対する朝廷の非常措置がとられていたことがわかる。


 それにしても気になるのは、大地震に対する朝廷の対応の遅さである。前回取りあげた貞観11年の陸奥国地震の時には、地震が起こってから5カ月後に詔が出されたのと同様、天長7年の出羽国地震の時には、地震が起こってから3カ月後になって、ようやく非常措置についての詔が出されている。被害の状況をとりまとめるのにかなりの時間がかかったか、あるいは朝廷の関心がすぐにはそちらにふりむかなかったのか、いずれにしても、都と地方社会の、災害に対する認識の違いが、ここから読み取れるように思えてならない。