富士山噴火の記録

 地震とならんで、火山噴火も、日本列島で頻発する自然災害の一つである。巨大地震と火山噴火が連動して起こる場合がしばしばあり、今の日本列島はまさに大地震動の時代である。


 私が専攻している古代史の文献をひもといてみても、火山噴火は社会を揺るがす自然災害として、記録にとどめられた。



 先にも触れたが、9世紀の日本列島は、数多くの自然災害に見舞われた世紀だった。火山噴火もまた、その例外ではない。たとえば富士山は800年、802年、864年と3回噴火している。


 当時の記録である『日本紀略』によれば、延暦19年(800)と延暦21年(802)の噴火について次のように記している(現代語訳、以下同じ)。



「去る3月14日から4月18日にかけて、富士山で噴火が起こった。昼は噴煙により暗くなり、夜は火花が散ったように天を照らした。その音は雷のように鳴り響き、灰は雨のごとく降り続けた。山のふもとの川の水は真っ赤に染まってしまった」(延暦19年)


「駿河国(今の静岡県)と相模国(今の神奈川県)から報告があった。『駿河国の富士山は、噴火のために昼夜を問わずあかあかとし、砂礫(されき)が霰(あられ)のごとく降っています』と。朝廷で占ってみたところ、『疫病が起こります』とのことであった。そこで駿河・相模の両国に命じて、災いを取り除くために富士山に鎮謝し、さらに読経をさせた」(延暦21年)




 そして802年の噴火のとき、噴石が交通路をふさいでしまったため、相模国の足柄路(あしがらじ)<足柄峠越えの道>が一時閉鎖され、筥荷(はこね)路<箱根峠越えの道>が迂回路として使用されたという。


 文献に記録された富士山の噴火で最も大規模だったといわれるものが、貞観6年(864)の噴火である。当時の記録である『日本三代実録』の記事を見てみよう。



「富士郡の正三位浅間大神大山(富士山)が噴火した。その勢いは甚だ激しく、1~2里(1里は約650m)四方の山を焼き尽くした。火炎は20丈ほどの高さになり、雷のような大きな音がして、地震が3度あった。10日以上経過しても、火の勢いはなお衰えない。岩を焦がして峰を崩し、砂や石が雨のように降った。煙や雲が鬱々と立ち込め、人は近づくことができない。富士山の西北にある本栖湖という湖に、焼けた岩石が流れ込んだ。それは長さ約30里、幅3~4里、高さ2~3丈に及んだ。焔はついに甲斐国との境に達した」(貞観6年5月25日条)


「駿河国の富士山が大噴火した。峰を焼き砕き、草木は焼け焦げた。土や石が流れて、八代郡の本栖湖と剗海(せのうみ)を埋めてしまった。湖の水は熱湯になり、魚や亀の類はみな死んでしまった。人々の家も湖と共に埋まったり、また家が残っても人影がないような例は枚挙にいとまがない。ふたつの湖の東には河口湖という湖があり、焔は河口湖にも向かっている。湖が焼け埋まる前に大地震があり、さらに雷と豪雨があり、雲や霧が立ち込めて暗闇となり、山野の区別もつかなかった。その後に、このような災厄が訪れたのである」(貞観6年7月17日条)<編集部注:剗海は大半が埋没し、一部が精進湖、西湖として残った>




 記事を読むだけでも、噴火のすさまじさがわかる。こうした大規模な噴火に対して、当時の朝廷は「鎮謝」という方法をとった。「鎮謝」とは文字通り、山の神の怒りをなだめ鎮める儀式のことである。火山噴火とは、山の神の怒りによるものという考え方があったのである。