いにしえ人と自然開発

 日本列島では、地震や火山噴火などのほかにも、日照りや水害など、さまざまな自然災害が人々を悩ませてきた。それに対して人間はもちろん、なすすべもなく立ちすくんでいたわけではなかった。


 人間は、自分たちが住みやすい環境にするために、絶えず自然に手を加えて、開発を進めていったのである。自然と人間の共生というのが、もちろん理想的な姿であるが、ときに人間が無謀な開発を進めていったというのも、歴史の現実である。


 たとえばむかしの人々は、自然を開発することに対して、どのような意識で臨んでいたのだろうか。


 古代に残された文献の中に、この点についてよくわかるエピソードがある。


 奈良時代前半(8世紀前半)には、全国で『風土記』と呼ばれる地誌が編纂されたが、その中でいまに残る『風土記』の一つとして、『常陸国風土記』がある。常陸国というのは、現在の茨城県のことである。その中に、箭括麻多智(やはずのまたち)という人物の土地開発伝承が残されている。少し長いが、その伝承の内容を見てみよう。


継体天皇の時代、常陸国行方(なめかた)郡(現在の茨城県)に箭括麻多智という人物がいた。あるとき、谷にあった葦原を切り開いて、田を開墾しようとすると、「夜刀(やつ)の神」が群がって現れた。「夜刀の神」とは、もともとこの谷地に住んでいる蛇のことで、地元の人びとは、これを「夜刀の神」とよび、この谷地に住む神としておそれていたのである。夜刀の神は、箭括麻多智が、この谷を開墾することに対して、抗議する意味で現れたのであった。

これに対して箭括麻多智は、甲鎧(かっちゅう)と矛(ほこ)を身につけて、夜刀の神を撃退してしまった。そして、山の登り口のところに、土地の境界を示すための柱を立て、夜刀の神に告げて言った。「ここより上の山側は神の土地、そして、ここより下を人間の土地とする。これからは、私が土地の神を祭る者となって、永久に敬い祭ることにしよう。どうか祟らないでほしい」

かくして、箭括麻多智はその谷地を開発するかわりに、夜刀の神を祭るための神社を作った。そして彼の子孫たちも、あとを継いで代々この神社のお祭りを担当したのだった。




 ここに見える継体天皇の時代とは、6世紀前半頃にあたると考えられる。この説話は、そのころの人間と土地との関わりを知ることのできる、興味深い史料である。この土地に住む当時の人々は、人間よりも前にこの地に住んでいた蛇を「夜刀の神」としておそれていた。


 そして、土地を開発する際には、あるていどその夜刀の神を撃退しつつも、一方で彼らとの共存も図らなければならない、と考えていた。それゆえ、人間の開発できる地域と、土地の神が所有する地域との間に境界を設けて、両者の共存を図ったのである。この記事からは、本来開発は無制限に行えるものではなく、土地の神に十分配慮しなければならなかったことを示している。そしてそれをコントロールできる人物が、その土地の支配者になり得たのである。


 ところがこの伝承には続きがある。『常陸国風土記』には、この土地のその後について、次のように伝えている。