現代人の中に生き続ける将門伝説

 平将門という名前は、日本史をひと通り学んだ人であれば一度は耳にしたことがあるだろう。平安時代中期の10世紀前半に、朝廷に反旗を翻して坂東(今の関東地方)で大規模な反乱を起こし、坂東を制圧し、自らを「新皇」と名乗ったことで知られている。


 平将門の乱は、なぜ起こったのか。大規模な反乱を生み出した背景は、次のようなものである。


 9世紀末の東国は群盗に悩まされていた。群盗には東国に移配された俘囚(律令国家に帰属した蝦夷)などが多く含まれていたといわれる。弓馬にすぐれていた彼らの中には、朝廷の内民化政策になじまない者もいたのだろう。群盗はやがて「僦馬 (しゅうば)の党」とも呼ばれるようになり、東海道や東山道といった官道を往来しつつ、略奪行為を行っていた。こうした東国の治安悪化にともない、朝廷は押領使を派遣して、騒乱の鎮圧にあたったのである。


 平将門の祖父高望(たかもち)王も、そうした群盗を鎮圧するために上総介として下向した貴族の一人である。彼は任期が終わってからも帰京せず、やがてその孫の平将門は、下総国を本拠として坂東を制圧し、天慶(てんぎょう)2年(939)、ついに朝廷に反旗を翻すことになる。これが平将門の乱である。翌天慶3年、将門は、朝廷から派遣された押領使の藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛によって滅ぼされた。



 なおこれと同じ時期、瀬戸内地方では藤原純友(すみとも)が海賊を率いて反乱を起こしたことも有名である。東と西で同時に起こった大規模な反乱は、「承平・天慶の乱」という名前で総称されたりするが、近年の研究では、将門や純友が国家に反乱を起こすのが天慶年間以降であると考えられることから、「天慶の乱」という呼称が一般化しつつある。


 平将門の乱は、当時の貴族たちにとって相当なインパクトだったらしく、その後も長く記憶に残り続けた。将門の反乱の一部始終は『将門記』にまとめられ、その後の軍記物語の先駆けとなった。



 貴族たちだけでなく民衆の間にも、将門伝説は語り継がれた。たとえば、東京都千代田区大手町のオフィス街の中にある平将門の首塚である。この首塚をめぐっては、文字通りさまざまな都市伝説が語られており、今でも、林立するオフィスビルの中にひっそりとあるこの首塚を訪れる人が後を絶たない。また、東京都千代田区の神田明神では、今でも平将門の霊を鎮めるお祭りが行われている。


 平将門は、小説やドラマのモチーフにもなっている。1976年に放映されたNHKの大河ドラマ『風と雲と虹と』は、この天慶の乱を題材にしているし、荒俣宏氏の小説『帝都物語』は、平将門の怨霊というのが、重要な鍵となっている。


 歴史上の人物がその後の歴史の中で再生産されることで、人々の意識の中に残り続ける。そのようにして平将門は、いまの私たちにもなじみのある歴史上の人物となったのである。