「騎馬民族征服王朝説」が長らく命脈を保ってきたのはなぜか?

 東洋史学者の江上波夫と、考古学者の佐原真による激論『騎馬民族は来た!?来ない?!』(小学館、1990年)を読んでいくと、あらためて江上波夫の学説の壮大さに驚嘆させられる。と同時に、当初の段階で構想していた「騎馬民族征服王朝説」が、かなり変容している点もまた、見逃せない。


「騎馬民族は来た!?来ない!?」(小学館)


 最もその点を感じるのは、「騎馬民族の順応性」という議論である。「騎馬民族征服王朝説」から私たちが思い描いていたイメージは、騎馬民族が武力によって農耕民族を屈服させて、九州から近畿地方へと勝ち上がっていった、というものであった。しかし江上はどうもそうは考えていない。騎馬民族は馬を使いながらも、戦うことをほとんどせず、農耕民族を手なずけていったというのである。


 なぜそんなことができたかといえば、騎馬民族は融通無碍であり、どのような地域に行ったとしても、その地域の風習や文化を取り入れることができた。つまり騎馬民族は、日本列島の農耕社会に馴化{じゅんか}し、ほとんど戦うことなく、その政治権力を勝ち取った、ということになる。


 これに対して、佐原真が、「うーむ。早くも、これは、江上先生の仮説はどこを斬りこんでも壊滅的な打撃は与えられそうもないような予感がしてきてしまいました。暖簾に何とかというか(笑い)、先生をやりこめる戦略はたいへんです。」と述べている。実際、佐原は、騎馬民族のもっているさまざまな風習(たとえば、馬の去勢の風習や、動物の犠牲の風習など)が、古代の日本に見られないことで、騎馬民族の社会と古代日本の社会の断絶性を指摘するが、江上はそれらの批判を騎馬民族の順応性という観点からかわし、まさに「暖簾に何とか」の状況なのである。




 こうしてみてくると、融通無碍なのは、騎馬民族ではなくて、江上自身なのではないか、とも思いたくなってくる。「学説は人なり」とでもいおうか、騎馬民族が融通無碍であるからいかなる社会にも適応できるという江上の主張は、実は江上の立てた「騎馬民族征服王朝説」そのものにも通じる価値観ではないだろうか。そして融通無碍というこの学説の特徴こそが、戦後の長きにわたってこの学説の命脈を保ってきたのである。