「源義経=チンギス・ハン」説の誕生

「騎馬民族征服王朝説」という学説から私たちが学んだことは、学説は時代の要請により形作られる、ということであった。そのような目で見ていくと、一見突飛な学説も、その学説が出された時代背景を考察してみることによって、時代の要請と深く関わっていることがわかるのだ。


「源義経=チンギス・ハン」説を、ご存じだろうか。鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、源義経は1189年(文治5)、奥州平泉において、藤原泰衡に殺されたと、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記されている。これが公式の歴史である。ところが義経は平泉で死なず、その後北海道に渡り、さらには大陸に渡って、チンギス・ハン(成吉思汗)となり、モンゴル帝国を築いたとする説が、かつて唱えられた。かなり突飛な学説だが、源義経は、生年1159年~没年1189年、一方のチンギス・ハンは、生年は1162年頃とされ、没年は1227年。王として在位したのは、1206~1227年のことであるという。つまり二人は同時代に生きた人物である。




 私がこの突飛な学説を初めて知ったのは、子どもの頃に読んだ、推理作家・高木彬光(あきみつ)の小説『成吉思汗の秘密』(1958年)であった。探偵・神津(かみづ)恭介が、義経=チンギス・ハン説を検証するという内容で、この本がベストセラーになることで、この学説は一般に広く知られるようになったと思われる。


 余談だが、テレビアニメ「ルパン三世 第2シリーズ」の37話「ジンギスカンの埋蔵金」(1978年6月19日放送)も、義経=チンギス・ハン同一人物説に基づいたエピソードを描いている。小説やテレビアニメを通じて、この学説は一般に広まっていくことになったのである。


 では、この突飛な説は、なぜ生まれることになったのだろうか。実は、源義経=チンギス・ハン同一人物説は、近世から近代にかけて、時間をかけて成立した学説なのである。


 源義経が奥州平泉で死なず、さらに北へ逃れたとする義経生存説が出されたのは、江戸時代前半のことである。


 『本朝通鑑』は、江戸幕府の命により編纂された歴史書である。林羅山・鵞峯(がほう)の親子がその編纂にあたり、1670年(寛文10)に完成した。この中で、源義経が奥州平泉から北に逃れたとする伝説を紹介している。


「俗に伝えて又た曰わく、衣河の役で義経は死なず、逃れて蝦夷島に到る。其遺種存す」(伝えるところには、平泉の衣川の合戦で義経は死なず、そこから逃れて蝦夷島(北海道)に到り、子孫を残した)。


 また、1720年(享保5)に水戸彰考館が編纂し幕府に献上した『大日本史』にも、


「世に伝う、義経は衣川の館に死せず、逃れて蝦夷に至ると」


と、義経生存説を紹介している。


 江戸時代の学者であり政治家であった新井白石もまた、義経が北海道に渡ったとする説に関心を寄せている。彼は『読史余論』(1712年成立)の中で


「義経、手を束ねて死に就くべき人にあらず。不審の事なり。今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。また夷人、飲食に必ずまつる。そのいわゆるオキクルミというは即ち義経のことにて、義経のちには奥へゆきしなどいい伝えしともいう也。」

と、義経が蝦夷地に逃れたこと、アイヌが祀るオキクルミの神が義経のことであること、さらに義経は蝦夷地より奥へ赴いたこと、といった伝説を紹介している。また白石が松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成した『蝦夷志』(1720年成立)の中にも、同様の話を紹介している。


 このようにして「義経が北海道に渡り、アイヌの神となった」とする説が17世紀後半から18世紀にかけて広まっていく。