広開土王碑とは?

 先にとりあげた、騎馬民族征服王朝説や義経伝説などをみるにつけ、前近代の歴史に関する学説や伝説が、実は近代以降の政治状況の中で、さまざまな形で利用されてきたのだと実感する。その意味で、前近代の歴史を考えることは、決して私たちと無縁なことではない。私たちは知らず知らずのうちに、前近代の歴史の中に、今の時代を投影してしまっている可能性があるのである。


 そういった事例を、もう一つあげよう。今回とりあげたいのは、広開土王碑である。 いまから1600年ほど前の4世紀末、中国東北部から朝鮮半島北部にかけて存在した高句麗という国に、広開土王(好太王)という王がいた。生前に「永楽太王」と呼ばれた彼は、在世中に高句麗の領土を拡大したことで知られ、そうした功績に基づいて死後に「国岡上(こくこうじょう)広開土境平安好太王」という名が贈られた。これを諡(おくりな)という。そしてこの長い諡の一部をとって、「広開土王」あるいは「好太王」と呼ばれたのである。




 ところで、この王の名を「広開土王」と呼ぶか「好太王」と呼ぶかについては、研究者の間で統一されていない。三国時代のことを書いた朝鮮半島の歴史書『三国史記』の高句麗本紀には、この王のことを「広開土王」という名で記していることから、韓国や北朝鮮の研究者は、もっぱら広開土王と呼んでいる。一方で中国の研究者はもっぱら好太王と呼んでいる。


 日本でも、広開土王と好太王の二通りの呼び名が用いられているが、最近では広開土王と呼ぶことのほうが多い。好太王というのは、王の美称として当時一般的に用いられたもので、彼の事蹟をあらわす名としては広開土王のほうがふさわしいと考えられているからである。ここでも広開土王と呼ぶことにする。


広開土王碑(2014年撮影)


 さて広開土王の没後、息子の長寿王は、父の墓の近くに6メートルにもおよぶ高さの石碑を建て、父の業績を称える漢文を刻んだ。これが有名な広開土王碑(好太王碑)である。 中国吉林省集安市に所在し、高さ約6.3メートル、幅約1.5メートルの角柱の凝灰岩の4面に、1775字(1802字とも)が記されている。現在は世界遺産に指定されている。石碑には、4世紀当時の倭が高句麗と交戦したことを示す記述もみられ、4世紀の日本列島の歴史を知る上で貴重な資料として、歴史の教科書にも紹介されていることは、よく知られているところである。